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アネビヤの婚約(1/3)

クナリは目が見えぬ豪商の娘、アネビヤと出会います。

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 目が見えず、知恵のない美しい女を、男は憐れだと言って慈しむ。
 けれど、目の見えぬ女が、聡明で、気が強く、恐れを知らぬ時、男達はその女を、可愛げがないと憎んで、嘲るようになる。
 べつに、縁遠いのを、そのせいにするつもりはない。だが、事実は事実だ。
 殿方は、自分を上回る器量の女を、大事にしたりはしない。守るのではなく、守られるのは、男の自尊心が傷つくからだ。目が見えぬ女と侮っているのなら、なおさらのことだ。
 店が天蓋を張り、家具を運んで準備した、特別な宴席だった。
 港市でも有数の酒家を、囲む庭だ。庭園の池には睡蓮が咲き、手入れの行き届いた花壇には、夾竹桃やハイビスカスが咲き乱れているのだろう。
 だろう、と言うのは、アネビヤには匂いでしか、その様子が分からないからだ。普段であれば、はした女のカヌワがその様子を解説してくれる。
「アネビヤ、今日こそは、粗相のないように頼むよ、おまえ」
 やや女性的な頼りない声でそう言ったのは、父のサルアヌだ。
 アネビヤの目にも、スガルバヤ一の豪商とは、とても見えない。商家の旦那、若隠居の道楽者、そんな表現が似つかわしいように思う。
 父サルアヌは、一代で財をなした曾祖父とは違い、商才にも人を統べる才にも恵まれなかった。
 事実、いま商船団を指揮し、商いを切り盛りしているのは、父ではなくアネビヤである。そんな事情から、アネビヤを金の亡者と表現する人もいる。財に執着し、まだ若い父を商いから追い出したというのだ。実際には、アネビヤ自身に財をなす事に対する執着がある訳ではない。もちろん損は許さないが、それは欲というよりも自尊心の問題だ。
 商人である以上、他人に食い物にされるのは恥と、心得るべきなのだ。
「粗相とは、お父様……いったいなんの事をおっしゃっているのですか? わたしはこのような席で分別を失った覚えは、一度もございませんが」
「……先方はたびたび度を失うようだがね」
「先様の無教養について、わたしを責められても困ります。わたしは夫となるかも知れない男性に、当たり前の基本的な常識をお伺いしているだけです。品物のそれぞれの税率も知らず、船員組合の上前比率も知らず、マティラ家の婿に入ろうとは、いったいどのような料簡なのかと、お父様こそ声を荒げても良い場面ではないかと――」 
「――それだ。おまえの言う事はもっともだが、おまえも、もう若くはないのだから、少しは男を立てるという事を学ばなければ」
「まだ、三十一にございます」
「それを世間では年増というんだよ。考えてもみなさい。お前の歳で、市井の女であれば、もう子供も大きく――」
「子供が――」
 アネビヤは、つい声を大きくしてしまった。痛い所を突かれたというのが本当だ。世の女並に、子供を産み慈しむのが、アネビヤが心の奥に隠す願いでもある。けれど、目が見えぬこの身では、もしやすると子供の負担になりかねない。そんな事はなにも心配ない。と父サルアヌは言う。はした女もいるし、乳母も雇う事ができる。
 だが、それがアネビヤには怖いのだ。もしかしたら母とは名ばかりのお飾りになってしまうのではないか。自分には少しもなつかず、むしろ乳母に甘える子供の声を、一人さみしく聞くだけの存在になるのではないか。
 それは、ただ一人きりで佇んでいるよりも、もっと恐ろしい孤独だった。
「子供だけが必要であれば、結婚など煩わしい真似は不要です。一夜限りの男を買えばよいだけの事です」  
「な、なにをおまえ、言うんだね。汚らわしい」
「けがらわしい? では金に飽かせて子をなす為だけの男を家に迎え、犬をつがわせるように扱うのは、けがらわしくないとでも――」
 居心地悪げに身じろぎする人の気配があった。いつの間にか、誰かがこの宴席に通されたのだ。
 ばつの悪い声で、はした女のカヌワが言った。
「……アネビヤ様。クナリ様がお見えです」
 クナリとは、今日の見合いの相手だった。
 聞かれてしまった。
 アネビヤは、頬が熱くなるのを感じた。
 下世話な話を、見知らぬ男に聞かれてしまった。
 この男は、私の事を品のない女、恥を知らぬ女と嘲るのだろうか?
 まだ、そう言われた訳でもないのに、アネビヤはこみ上げる怒りに、さらに顔を熱くした。
 勝手にすればいい。話が違うと怒ればいい。こんな年増とは聞いていないと、言うのならば言えばいい。わたしには関係ない。もともとなんの縁もない男だ。
「はは、これは間の悪い所に来てしまったみたいだ」
 はは? 笑ったの?
 予想に反して、まだ若いクナリという男の口からもれたのは、気は抜けたような情けない笑い声だった。
 アネビヤをなじる声とは違う。だが別の意味で、爪の裏が痒くなるような、歯痒いような苛立ちを、アネビヤは感じた。
 貞淑を要求する男男した連中もうんざりではあるが、のれんに腕押しと言った感じのこのような軽薄な男も――。
 これはこれで、腹が立つものね。
「お父様」
 アネビヤは、つい苛立った声を上げてしまった。
「あ、ああ、すまないね、君、ここに座りたまえ。紹介するよ。これが娘のアネビヤだ」
 クナリの声は、気が抜けてはいるが、若々しい物だった。
「クナリと申します。はじめてお目にかかります。父も兄も所用で、一緒には来られませんでした。失礼をお詫びします。」
 アネビヤは顔を熱くしたまま、うつむいていた。
「驚きました。わたしより年上とお伺いしておりましたが、お美しい。まるで少女のようだ」
 さらりと、このような言葉を口に出来る男を、信用など出来る筈がない。アネビヤは返事をせず、横を向いた。どうにか舌打ちをせずにすんだ。
「わたしの自慢の娘なのだよ。少々、とうが立ってしまったがね」
「お父様!」
 はは、とクナリは笑った。よく聞くとその笑い声は、どこかうつろで悲しいような響きがあった。それで少し怒りが冷めた。
 噂では、女遊びの好きな武家の四男坊、世間で言う所のごく潰しだ。成人の儀で失敗し、ムルアナ家では用無しとなった。だが、誰かを傷つけたとか、誰かと争ったとかいう話は聞かない。調べをした者によると、なじみになった娼婦の間でクナリを悪く言う者はいなかったという。
 見えるままの、軽薄なだけの人ではないのかもしれない。
 だからといって尊敬できるというわけではないのだが、話ぐらいはしてみてもいい、とアネビヤは思った。
「ちょうどいい、食事の準備はまだのようだ、アネビヤ、庭園を案内してあげてはどうかね」
 父サルアヌは気を利かせたつもりだろうが、手を引いて貰わなければならないのはアネビヤの方だ。たいていの男は、目が見えぬ女の手を引いて歩いた経験などないのだ。アネビヤは転ぶことなど慣れているが、相手には気まずい思いをさせかねない。
「それはいい、とても美しい庭です」
 戸惑っているアネビヤの気も知らず、クナリという若者はアネビヤの手を取った。
 驚いたアネビヤは、火傷をしたように手を引っ込めてしまった。
「嫌ですか?」
 からかわれているのだと思った。男に慣れない年増と、馬鹿にしているのだ。
「いいえ。お願いします、クナリさま」
 差し出した手を優しく取って、クナリは、アネビヤが動くのを待った。
 クナリは、他の男と違い、犬を引くように慌ただしく先を急いだりはしなかった。

 アネビヤという女については、なじみの娼婦から噂を聞いていた。
 一つは人間味のない石のような女という噂だ。人の気持ちを解さない金の亡者で、血の通わない女だという。
 もう一つは娼婦以上の淫売だという噂だ。なんでもご乱行を繰り返した時期があり、金にあかせて男を漁り、時には、一度に複数の男と寝床を共にしたと言う。
 もっとも、御乱行の話をする時、娼婦の顔は「持てる者」への嫉妬をむき出しにしていたので、どこまでが本当の話か、クナリには分からない。
 石橋の中途で立ち止まり、クナリは辺りを見渡した。睡蓮の咲く池や、石で何層にも作った豪華な花壇が目に入る。ずっと向こうに見える、両端が天をつくように尖った藁屋根は、料理を供する酒家の本館だ。
 立ち止まっているのは、困り果てているからだ。
 辺りを見渡すこの間も、アネビヤは怒りを含んだ声で、クナリを責め続けている。
「驚きました。まるでなにもご存じないのですね。それでは、読み書き、計算のどうにか出来かねる、子供とまるで同じではありませんか」
 はっきりと、物を言う女だった。
 仕方がないのだ、と心でクナリは溜息をついた。
 闘いの他は、なにも知らぬ家で育ったのだ。そんな無理を言われても、クナリにはどうする事もできない。
「もし、わたしの婿となるのであれば、わたしの手足の代りとなって動いてもらわなければなりません。慣れぬ算術も多少は積んでもらわなければ。その覚悟は、おありなのでしょうか?」
 さすがにクナリもむっとして言い返した。見合いの席で詰問とは、常識がないのはお互い様であろう。
「手足が欲しいのであれば、その辺の苦力でも雇えばよいでしょう。あなたの財力であれば何人でも思いのままだ」
 だが、後悔した。
 アネビヤは、それを聞いて色を失い、悲しそうにうつむいてしまったからだ。
「ごめんなさい。選ぶかどうかを決めるのは、クナリ様、あなたの方でした」
 最初、金持ちの年増と聞いた時、想像したのは肉付きの豊かな、けばけばしい中年の女だ。悪い噂を聞いていたせいもある。まあ、買われていくのだから文句は言えまい、とそのように考えていた。
 だが、実際に目にしたアネビヤは、とても三十路を超えているとは思えぬほどに若々しく、無地の生地を基調にした、質素な衣服を巻きつけた様子は、まるで清楚な少女のようであった。
 陽に当たる機会が少ないせいか、肌は青みがかかるほどに白い。長い髪は、真珠の髪飾りで清潔にまとめられていて、襟元から見える細い首の辺りが、ぞくっとするほどになまめかしかった。
「失礼な事を申しました。覚悟と言われれば……まあ、覚悟などはなかったかも知れません、はは」
「悲しい声で、お笑いになるのですね」
 クナリは、ぎょっとして目を閉じたままのアネビヤの顔を眺めた。心を見透かされたような気がした。いつの頃からか、クナリはこのような笑い方をする。笑いが空虚な理由は、自分でも心当たりがある。
 なにも、ないからだ。
 クナリは空っぽの器のような男だ。愛を注がれた事もなく、期待や、憎しみさえ注がれた事がない。風が吹けば空の器が鳴るように、ただ、笑うだけだ。
「あなたはおかしな人です」
 アネビヤはうつむいたまま、少しだけ微笑んだ。
「たいていの殿方は、腹を立ててわたしを詰ります。わたしがそのように仕向けるからです。本当は、わたしは結婚など望んではいないのです。笑ったのは、あなたが初めて」
「気が向かぬのなら、断ればよいのに」
「父をがっかりさせたくないのです」
「では、わたしからお断りした方がいいのですか?」
 アネビヤは、泣いているのか笑っているのか分からない様な顔を上げて、目を閉じたまま、静かにかぶりを振った。
「いいえ、いつまでも逃げ回っている訳にはいかないのです。優しい方であれば、わたしはもう、それでかまいません」
 ことり、と、なにかが胸に落ちる音がした。
 アネビヤが、クナリにとって特別な存在になったのは、その時からだった。

      続く

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