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【お医者さんごっこ】R18注意!

    

本文

 丘が連なっていくように、海まではでこぼこの道がつながっている。
 斜面にへばりついているのは古びた家が多くて、寄りそったり離れたりしている様子は、それ自体が山からの強い風をさけて集まった生き物のように見えた。
 海には大きな作業船がゆっくりと動いていて、波に流されているのかと心配になるけれど、時々、船のお尻で白い波が立つので、漂流しているんじゃなくて定位置を保とうとしているのだと分かる。
 船の向こうには、瀬戸内海の島が墨絵のようにぼんやりと浮んでいて、夕ご飯の時間なので、ピンクだか紫だか、それとも夜の深い蒼か分からないような色に染まっている。
 暗闇が迫っているのに、空の色を反射して、海はまぶしかった。
 その様子を、ぼくは丸い石とコンクリートで出来た坂を下りながら目にした。
 ぼくが生まれた町の夕暮れは、とても綺麗だけど、とても危うくて寂しげだった。
 平たい土地は紙製品――おむつやティッシュペーパー――を作る工場で覆われている。だから家も、小学校も、畑や水田も、高速道路さえ、生活の建物はみんな、ゆるやかな山肌に張りついている。
 つづら折れの坂道を下っていると、石垣の陰で、斜面の下を窺っている三島小夜を見つけた。
 三島小夜は習い事の帰りなんだろうか、ディズニーキャラのかわいいカバンをさげている。そういえばピアノが上手とか、母さんが言っていた。小夜の母親とぼくのお母さんは、幼稚園の頃からのママ友なので、小学五年生の今でも、きくとはなしに三島小夜の様子が耳に入る。
 石垣の向こうをうかがう三島小夜は、ときどき学校で見かける時と同じで、肩にかかるかからないかのさらさらした髪を、カチューシャででとめている。水色に白い水玉模様の子供っぽい髪留めだ。男の子みたいな細い手足は相変わらずだけれど、ここ一年くらいであちこちが少し丸くなってきたような気はする。アニメみたいな少女趣味のワンピースが、なんだか似合ってしまっている。
 女の子は成長するんだなあ、とぼくは思う。男の子だって成長するけれど、女の子の成長とはまた少し意味が違うような気がする。じつは三島小夜は、いまではぼくよりも背が高い。制服を着せて中学生だと言えば、誰も疑わないかも知れない。
 幼稚園で一緒にくっついて眠ったり、けんかして引っかきあったりしたのが、もう、ずいぶんと昔のことのように思える。もう戻れない、まだ自分と他人の境い目がはっきりとわからなかった頃の話だ。
「なにしてるの、小夜?」
 三島小夜は、飛び上がって振り返り、はずんだワンピースのすそを手で押さえた。どうしてか分からないけれど、顔を赤くしている。三島小夜は大きな目で、血管が見えそうな透き通った肌をしていて、顔を赤くして、ちょっと上目づかいで見つめられると、なんだか居心地が悪かった。
「な、なんでもないよ。ちょっと変な人がいたから」
「変な人?」
「ほんとうになんでもないの」
 ぼくは、どぎまぎしている小夜を脇へどけて、石垣の向こう側、坂の下をのぞいてみた。
 黒い制服は高校生だろう、三人くらい自転車を押しながらふざけながら歩いていた。
「知ってる人?」
 三島小夜はまじめな顔で、ぶんぶん、と首をふった。
「知らない。ぜんぜん知らない人」
「なら、気にしなくていいだろ」
 と歩き出したぼくの腕を、三島小夜は両手で取って胸に押しつけた。やわらい感触で、こんどはぼくの方が耳が熱くなる。
「な、なに?」
「待って、一緒に」
「一緒に……なに?」
「一緒にかえってくれない?」
「いいけど……どうしたの?」
 高校生の三人組は、ぼくたちに気づいたみたいだった。
 ふざけるのをやめて、じっとぼくたちを見ていた。
 ぼくの体の後ろで、三島小夜が体をかたくしているのが分かった。
 やがて、高校生たちは視線をそらし、ふざけあいながら坂を下っていった。
「……なにか、あったの?」
「ちょっと、追いかけられちゃった」
「え、まじ? あぶない感じで?」
「わかんないけど」
「先生にはなす?」
「……いいよ、べつに。もう行っちゃったし」
 三島小夜は、ぼくが腕に押し付けられた胸を気にしているのに気づいて、手をはなして、気をつけの姿勢になった。
「ご、ごめん。ちょっとこわかったから」
「……いいよ。家まで一緒に行こうか」
 ぼくが先に歩くと、三島小夜は後からついてきた。空の色は夕闇の蒼色が強くなり始めていた。
「なんか迷惑かけちゃって、ごめんね」
「たいしたことないよ。幼稚園のころにくらべたら」
 幼稚園児の三島小夜は男勝りで、ぼくのお尻には、小夜が突き刺した色鉛筆のあとが、紫の刺青になって残っている。
「根にもつタイプなんだ」
「泣かされたからね」
「いじめたくなっちゃったのよね、あの頃は」
 小学生の三島小夜は、すっかり大人しくなって、けんかもしないし大きな声を出したりもしない。幼稚園を知らない同級生は、清楚で可憐な少女だと思っている。人生ってわからない。
「かまいたくなっちゃうのよね、とうくんて」
 とうくんて言うのはぼくのことだ。鴻上冬哉。だいたい学校ではとうくんって呼ばれる。
「……気があるってこと?」
 三島小夜は、下を向いて首筋を赤くした。
「ち、ちがうと思うけど」
「……ちがうよね。えんぴつ刺したし」
「そ、それについてはごめんなさい」
「いいよ。大怪我じゃないし」
「とうくんががつんとやればよかったのよ。力はずっと強かったんだから」
「がつんとは無理だったと思うよ」
「どうして?」
「女の子だからね」
 好きだったからね。でも、きみは男の子なんか、興味なかったじゃないか。
「……優しいよね、基本、誰にでも」
「誰にでも?」
「たとえば犬にでも」
「犬は好きだ」
「……わたしは?」
 冗談はよせ、と言いそうになったけど、真面目な顔でそう言った小夜は、ぼくの方を見ていなかった。
「犬と同じレベルで?」
 小夜は、ぼくを見ないまま、握った手でぼくのわき腹を叩いた。
「意地悪になったよ……あんなに純真だったのに。くっついてはなれなかったんだよ」
 言われてみれば、そうだったかもしれない。ぼくには二つ上の姉がいるので、小夜を追い回したような気もする。
「それは忘れてほしい。大きくなるまでにはいろいろあるさ」
 丘の中腹にさしかかると、お寺の境内が見えた。お寺の敷地自体が古墳みたいなゆるやかな土盛りになっていて、境内には巨大なマッシュルームみたいな大クスノキが、人目をさえぎるよろいの様に、薄緑色の葉を茂らせていた。
 楠は、もうすぐ来る夏に向けて、エネルギーを溜めているように見えた。
 お寺の方を見て、小夜はまた赤くなった。たぶん、お医者さんごっこを思い出したのだ。ぼくには嫌な思い出だ。
「かくしたら遊んであげないって言ったよね」
「や、やめ、やめて!」
「つまんで、ひっぱった」
「やめてー!」
 古い小さなお寺は、地元の自治会が掃除をしているだけで、誰も管理する人はいない。塗り壁に囲まれた境内の裏手には、お寺のまわりにめぐらされた板張りの軒下があって、蟻地獄がすんでるような砂の上の板張りで、ぼくは、女の子の秘密めいた遊びに付きあわされた。おままごととか、お医者さんごっことか、大人には内緒の遊びだ。
 縁台みたいな板張りは、この方角からは見えない。だから密室なのだ。
 たぶん今でも、子供達が秘密の遊びに使っている。
「……興味あったの?」
「だって、わたしにはついてないんだもん」
 そりゃそうだ。女の子だから。
「行こう、暗くなっちゃう」
 三島小夜は、ぼくの手をとって引っぱった。手は育った体のわりに小さくて、ひんやりとしていた。
 甘いような香りが、鼻をくすぐった。男の子は女の子の香りを、いい香りだと感じるように出来ているのだ。


「この頃、よく一緒なんだな」と北爪あきらは言った。三島小夜のことだ。
 あきらは男っぽい顔で、スポーツが得意なので女の子に人気がある。乱暴なしゃべり方が、またいいんだそうだ。体も大きくて、小夜よりは背が高い。成長するとどんな姿になるんだろう、と思った時は、あきらを眺めてみることにしている。
 学校には武道館がないので、練習は体育館でする。地元の剣友会が熱心に指導してくれるけど、それらしい成績を残すのはあきらだけだ。あきらは好きで剣道をやっている。あきらにはしっくりきたんだ。ぼくにはそうじゃない。しっくりくるものなんてなにもない。ゲームには熱中するけれど、べつにぼくはゲームが好きなわけじゃない。
 ただ、他にすることがないだけだ。剣道をやっているのと同じだ。
 ぼくは面を外して、汗をぬぐった。防具の酸っぱい匂いはあまり好きになれない。
 体育館の壁際に正座して、ぼくはあきらと並んで座っている。
 年下の子が、模擬戦をしているのだ。あきらは模擬戦の様子をちゃんと目で追っていた。真面目だから、後でアドバイスするんだろう。
「うん、一緒だけどなに?」
「家が近いのに口も利かないから仲が悪いのかと思ってた」
「あきらは仲がいいよね、小夜と気があう方なの?」
「小夜は……誰とでも合わせるだろ。昔はもっとわがままだったけど。おれも同じだよ。合わせてくれてるんだ」
 そう言うあきらは、ちょっといつもと様子が違っていて、なんだか寂しげな声だった。
 そう言えば、幼稚園の頃はあきらも小夜とはでなつかみあいをやらかしてた。小夜が鼻血を出してたりしてたから手加減なしだ。はがゆくてたまらないように見えた。なにが気に入らないんだろうと思ってたけど、理由がいまわかった。
 幼稚園の子供でも、独占欲ってあるんだなと思う。嫉妬とか、ねたみとか、そういう感情をぼくはうまく理解できない。
 うらやましいと思わないからじゃない。興味がないからだ。
 たぶん、ぼくは冷たい人間なんだと思う。お父さんやお母さんが、ときどき寂しい顔でぼくを見る時に思う――ほんとうにそれでいいの。欲しい物があったら、言ってもいいのよ――そんなことを言う時のお母さんはとても悲しそうだ。まるでぼくが自分の子供じゃなくなったかのような顔をする。
 あきらはぼくと目を合わせなかった。模擬戦の様子を見たままで、険しいような大人びた顔で言った。
「じゃ、おまえも小夜としたんだ」
「したって……なにを?」
 そう答えると、あきらは驚いてぼくの方を向いた。
「おまえ……知らないのか?」
「だから、なにを?」
 あきらはぼくを目を見たまま、なにかを考えているようだった。瞳の大きさが微妙に大きくなったり小さくなったりしていた。やがて、泣き顔のようにくしゃっと顔を歪めたけれど、すぐに立ち直って、いつもの怒ったようなすまし顔にもどった。
「……なんでもない」
「なんだよ感じ悪いな」
「すまん……なんでもないんだ……おまえ小夜のこと好きなのか?」
「え……そんなの急に言われても」
「……なにかあったら、話してくれよ」
「ん……うん、わかったけど」
 あきらの物の言い方は、なにか引っかかって、なんだか胸騒ぎがした。
 だって、あきらはぼくが知らないことを知ってる。
 指導の先生が――ぼくらにはもうおじいさんだけど、まだまだ元気だ――集合をかけた。
 話はもう終わりで、ぼくらは竹刀を手にして立ち上がった。 


 ずっと昔は、小夜は話題の中心で、女の子は男の事のいさかいで小夜を頼りにした。
 いつの間にか、小夜はすっかりおとなしくなって、日陰に咲く花みたいに、教室の隅っこで微笑んでいる。姿で言えば、たぶん教室の誰よりも女の子らしい。いつも白っぽい清潔な色のブラウスとスカートで、目印みたいに髪留めをしている。
 ときどき振り返って話しかける友達に、にっこり笑って、「そうね」とか、「おかしいね」とか短く答える。でも、自分も机を囲んで話題に加わろうとはしない。まるで、なにかを怖がってるみたいだ。
 小学生の昼休みって、時間の密度的にはけっこう長い。まいにちこんな感じだから、小夜の昼休みって想像以上に不自然だ。図書室に行って本でも読めばいいのにって思う。
 見ていられなくなって、ぼくは小夜のとなりに座った。
「時間ある?」
 時間をもてあましてるのは知ってるけど。
「どうしたの?」
 小夜はびっくりしたみたいだ。たぶん小夜にとって、ぼくは自分からは女の子に声をかけないタイプなのだ。
「てつだってよ。本を探してるんだ」
 小夜はぱっと花がさくみたいに表情を明るくした。
「いいよ、わたしでよかったら」
 立ち上がって、小夜はぼくの手を取った。小夜は普通なんだろうけど、ぼくは教室の視線が気になった。
 その時、ぱぁん!と大きな音がして、教室の扉が開いた。
 目を赤くして唇をかんで立っているのは、望田沙菜とかいう女の子だ。学年が上で六年生なのに知っているのは、たまたま最近、噂を聞いたからだ。高校生とつきあってるとか、そんな感じの噂だ。あまり興味ないから聞き流してた。
 望田沙菜は泣いていた。まっすぐに歩いて来て、小夜の机をつかみ、なぎ倒した。机の中の物が、ばらばらに床へ広がった。
「死んじゃえ!」
 望田沙菜は泣きながら、小夜に叫んだ。
「あんたなんか死んじゃえばいいのよ!」
「ちょっと、いきなりなによ」
 遠巻きにしていた女の子の一人が言うと、望田沙菜はその女の子に向けて、持っていたクスリ瓶みたいなのを投げつけた。
瓶はあたらなかったけど、床に落ちて散らばった液体からは白い蒸気みたいなのが立ち上って、鼻につんと刺激臭があった。たぶん塩酸だ。女の子たちが悲鳴を上げた。
 小夜はびっくりして立ち尽くしたままだ。
 望田沙菜はまた向き直って、小夜に叫んだ。
「あやまりなさいよ! みんなにばらしちゃうわよ」
 小夜は青ざめた顔のまま、ひきつった声で言った。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
 ふん、と鼻で笑って、望田沙菜はあごをつんと上げた。
「いいわ、だまっててあげる。土下座してよ。土下座して、ごめんなさいって泣いて」
 小夜は、だまって下を向いていた。ふるえる唇や手は、完全に罪びとのそれだった。やがて小夜はにぶい動きで、ちょっとほこりっぽい感じの教室に膝をついた。かすれた声が――ごめんなさい、と言った。
 こんなのってない。
「だめだよ、小夜。言わせたらいいじゃないか。なんだっていうんだ」
 ぼくは望田沙菜をにらんだ。
「おどすなんておかしいよ。事情は知らないけど、はがゆいからって人の弱みにつけこんで思うようにするのは、卑怯だろ」
 小夜は、ぼくの小指をとって、弱々しく引いた。
「とうくん、あたしがわるいの……いいの、あやまらせて」
「だめだ」
「ふううん、もうその男もたらしこんだんだ」
 たらしこむってなに? どういうこと? この女はなにを言ってるんだ?
「ばかばかしい、いいわ、もう謝らなくていい、それにばらさない。あんたの運命はあたしが握ってるのよ。せいぜい、びくびくしてればいいわ。ぜんぶ、あたしの気分しだいなんだから」
 望田沙菜は、散らばったノートを蹴飛ばして、背中を向けた。
「じゃあね!」
 なんだか、気が済んだみたいだ。
 ぼくは、震えている小夜を抱き起して、椅子に座らせた。
 女の子達はぼくを押しのけて、泣いている小夜を慰めはじめた。
 なんだかわからないけれど、たぶん、これが小夜がおびえている出来事なんだと思った。
 その後、先生がやってきて、割れた塩酸の瓶を見つけ、学校は大騒ぎになった。
 父兄が呼ばれ、保護者説明会があって、望田沙菜は長い間学校を休んだ後、転校になった。
 人が人を憎むって、ああゆうことなんだなって思った。
 でも、ぼくはまだ、小夜の味方だった。


 それから、なんとなく教室の雰囲気がおかしくなった。
 女の子はあまり、小夜に話しかけなくなり、小夜のいない所でひそひそと話すようになった。
 男子の間で、小夜のことが話題になった。誰がいちばんかわいいかという話だ。
「たしかに三島小夜はダントツだけど、でもあんな話をきちゃったらなぁ。あれだろ、あいつって――」
「だまれ秋山! ばか! 鴻上くんがいるでしょ!」
 細川っていう女の子が、怖い顔で睨んだ。鴻上ってぼくのことだ。なんだか感じが悪い。ぼくだけが知らないみたいじゃないか。
 にらまれた秋山はしどろもどろになっていた。
「ご、ごめんよ細川。つい口が……」
「ちょっと待てよ。どういうこと? ぼくだけ知らないの? なにを言おうとしたんだよ」
 細川は、あちゃーて感じで、顔を押さえた。秋山はおろおろしている。ぼくはめったに怒らない。
 でも、怒れないわけじゃない。
 ぼくは、わざわざ歩いて、秋山の前にまわった。まっすぐに秋山の目を覗き込む。
「話しにくいなら、ちょっとでようか?」
 ぼくは、にっこりと笑った。秋山はおしっこをもらしそうな顔をしていた。


 どうして、ぼくには違うのかなって思う。
 みんなにするようなことを、小夜はぼくにはしなかった。出来なかったのか、してくれなかったのかは分からない。でも、ぼくだけがのけものなのは確かだ。
 秋山の話で、思い出したのは幼稚園の頃のことだ。
 セミの声がしょわしょわとうるさい日だった。
 お寺のまわりは、背の高い瓦葺きの土塀が取り囲んでいた。土壁の漆喰はところどころ剥げていて、土蜂がとっくりみたいな巣をつくっていた。憶えているのは、そんな断片的な情景だ。
 お寺のまわりは回廊みたいに軒下に板がはってあって、石の土台が透けてみえる板の上は、大人がやってこない秘密の場所だった。
 小夜がどうしても見せて欲しいというから、ぼくはズボンを脱いで、Tシャツを持ち上げた。
 小夜は興味津々で目の前に膝を立てて、屈みこんだ姿勢で、じっくりと眺めていた。どちらかというと真面目な顔で、唇をかんでなにか考えていた。たぶん、どんな仕組みになっているのか考えていたのだと思う。
――さきっちょから、おしっこがでるの?
――そうだよ。小夜ちゃんは違うの?
――うん、なんかぜんぜん違うね。
――ふーん、違うんだ。
――触ってもいい?
――ダメだよ。いやだよ。
 ぼくは、小夜を見下ろしてるので、ワンピースの胸元から、白い肌が見えた。小夜は鼻がふれそうなくらい近くにいて、息がかかってくすぐったかった。
 床下を、かさかさと音を立てて、猫が通っていった。満足したのかどうか、小夜はぼくの手を取って座らせた。それから自分は立ち上がって、ワンピースの下に手を差し込んだ。水色の下着が下ろされて、足首の所にひっかかった。
――ぜんぜん違うよ。見せてあげる。
 小夜は、見たことがない笑みをうかべて、ワンピースの両端を持って、そっと持ち上げた。
 どんな様子だったか、あまり覚えていない。
 ただ、ちょっと怖かったのを思い出す。いけないことをしている、という感覚が確かにあった。
――触ってもいいよ。
 小夜は恥ずかしそうに眼を閉じた。とても暑いので小夜の鼻の頭には汗の玉がくっついていた。
 たぶん、ぼくもあんな顔をしていたんだと思う。
 この想い出はこれで終わりだ。ぼくは怖くなって逃げ出したから。
 ぼくを見送る小夜は、おへそを出したまま、とても悲しそうな顔をしていた。ぼくはもう小夜は遊んでくれないと思っていて、じっさい小夜は、ぼくを境内に呼ばなくなった。そういえば小夜が大人しい子になったのはそれからだった。


 たぶん、あの秘密の境内だと思った。
 みんなが口をとざして、目を背けるようなことが、あの境内で起っているのだ。
 小学校は山肌を走る高速道路よりまだ上で、町を見下ろす高台にある。そこから海に続く入り組んだ坂道を、ぼくは走った。
 今まで理解できなかった感情が、はじめてわかった。
 この胸が悪くなるような、息が詰まるような、パニックみたいな気持ちが、この誰かを傷つけてしまいそうな凶暴な気持ちが『嫉妬』だ。ぼくは小夜をだれかにとられたくないんだ。
 ため池のまわりをめぐり、草に埋もれた公園の脇を抜け、丸い石を積んだ坂道を、ぼくは下りていった。
 見えたお寺は、やっぱり新緑色の大クスノキが守っていて、銅がさびた緑色の屋根には、ざわめく枝の陰が落ちていた。白い土の境内を走り、狭い土塀の間を抜けると、秘密の場所だ。飾りがまいてある大クスノキの節くれだった足元を抜け、あとお寺の角を曲がる所で、人の声が聞こえた。大人でも子供でもないような、かすれたいびつな声だった。
――小夜ちゃんはやらしいね。すっごいえろい顔してるよ。
 いびつな声が言って、他の誰かが笑った。
――小夜ちゃんのお父さんに見られたら、おれたち殺されちゃうな。
――でも、小夜ちゃん喜んでくれるし、おれたち悪いことしてないよ。
 見たくないけど、見ないわけにはいかなかった。
 ぼくは、一度逃げ出して、小夜ちゃんを傷つけた。だからぼくはなにが起っているのか知らないとだめだ。
 お寺の角をまわると、三人の人影が見えた。黒いズボンに開襟シャツの、いつかの高校生だった。
「沙菜ちゃんに同じことしようとしたら怒っちゃった。やっぱり小夜ちゃんは特別なんだね」
「でも、沙菜ちゃんすごく怒ってなかった? たぶん、優しい従弟を小夜ちゃんにとられたと思ってるよ」
「おまえがぜんぶ話しちゃうからだろ、ばか!」
 そういうことか。いま事情がわかった。べつにわかりたくなかったけれど。
 高校生の一人は、膝くらいの高さの軒下の板に、腰かけるように足を投げ出していて、小夜はその膝に尻餅をつくように、腰を下ろしていた。いつものように清潔な薄緑色のワンピースだった。ちょうど大クスノキの新芽のような色だ。高校生は小夜の後ろから体を支えていて、まだ膨らみ切ってない胸を、ワンピースの上から触っていた。
 ワンピースが汗で濡れているのがわかった。手で握られた胸が、水風船みたいに形を変えた。
 ときどき突き上げられる度に、小夜は苦しいような顔をして、眉をよせていた。
 苦しいような顔をしているのに、目はぼんやりとしていて、手はスカートの前をぎゅっと押さえていた。ちょうど押さえている辺りが、突き上げられて揺れていた。
「どう、気持ちいい? 小夜ちゃん」
 小夜の横で写真を撮っていた高校生が、声をかけた。返事をしようとして、ぼくに気がついた小夜は、高校生にまたがったまま、消えてしまいそうな声で、だめ……と言った。
――いや……どうして……だめ、あ……。
 後ろから高校生がはげしく突き上げて、小夜は苦しそうな声を出した。
――おにいちゃん、とめて……はずかしいの。
「だめ、小夜ちゃんはやらしい子でしょ」
――だめ、だめ、だめよ。
「きみ、小夜ちゃんのクラスメートなの?」
 高校生の一人はきさくに声をかけてきたけれど、ぼくは返事出来なかった。
「大丈夫だよ、小夜ちゃんはこんなふうにされるのが好きなんだ。きみもこっちへ来て、一緒にきもちよくしてあげようよ」
 小夜ちゃんの足首に、片方だけ脱がされた下着が引っかかっていた。
 高校生は、ズボンから取り出して、小夜ちゃんの顔の横にもっていった。
――だめ、いやです。
「じゃあ、しまっちゃおうか?」
 小夜はぼくに視線を送りながら、ためらっていた。顔をびたびたされると、小夜はあきらめるように目を閉じた。
――ごめんね。
 小夜はピンク色の舌先で、ちろちろとそれをなめた。
 後ろからつきあげていた高校生が、ワンピースの下に腕をいれて、たくしあげた。
 つながっている部分が見えて、出たり入ったりするそれは、てらてらと濡れて光っていた。
 高校生は、むきだしになった小夜の胸をつねった。
――ああ! だめ。
「気持ちいいの?」
――気持ちいいの! ごめんなさい。
 小夜は、ケダモノみたいな声で叫んだ。髪留めがはずれて、小夜は髪を振り乱していた。
 胸がばくばくして、気分が悪くなった。
 なんだか悲しいなと思った。
 ぼくは泣いたかもしれない。
 高校生たちは、動揺していた。
「ごめん、もしかして彼氏だった?」
「ご、ごめん、ごめん、知らなかったから。やめる、やめるよ、泣かないでよ」
「おまえら、サイテー」
「おまえもだろ!」
 ぼくは、背中を向けて逃げ出した。やっぱり同じだった。どこかですれ違ってしまって、もう遅すぎるんだ。もう一度なかよくなんか出来ないんだ。


 ずうっと海まで下がると、無人化されてほとんど人の姿を見かけることのないオムツ工場がある。
 敷地は綺麗に整理されていて、清潔で、無機質だ。
 地域の為に造った公園が、防波堤の手前にあって、公園からは、波の打ち寄せるたぷんという音や、生臭いような潮の香りがする。
 ブランコは、びっくりするくらいの高さがあって、危険のない柔らかな素材でできている。
 ぼくはブランコにすわり、ぼんやりと空を見上げていた。
 空はまたあの色に、ピンクとも紫とも、薄闇とも分からないような色に染まっていた。
 巨大な直方体の工場はライティングされていて、テーマパークのアトラクションみたいだ。
 誰かが、となりのブランコに座って、びっくりして見ると、座ったのは小夜だった。
 小夜はあんなことがあったとは信じられないくらい清潔で、いい匂いがして、汗もかいていなかった。ちょっと血の色がなくなっていて、いつも当たり前の笑顔もなく、沈んでいて、まるでお人形みたいだった。
 なにを言えばいいのか分からなくて、ぼくは黙っていた。
 長い時間がたってから、小夜は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「わたしおかしいの、ふつうじゃないの」
 小夜は、あしもとの地面をみながら、ゆっくりとブランコをゆらした。足がはなれないくらいの間だけ、ゆっくり、ゆっくりと。
「いやだけど、いやじゃないの。 いやだけど、うれしいの……だって、よろこんでくれるから」
「……あきらともしたの?」
 小夜は、くちびるをかんでうなずいた。
「ごめん……他にもたくさん……いやって言えないの」
「じゃあ、どうしてぼくとはしてないの?」
 小夜は片方の手を、もう一方の手でつつみ、膝の上で固く握った。言いにくいことなのかもしれない。やがて、いつもとは全然違う、かきむしるような声で言った。
「わたしおかしいの、喜んでくれると思ってるのに、優しくしようと思うのに……みんながして欲しいということをすればするほど、みんな、あたしの前からいなくなるの。冬哉くんもそうだよ、わたしが嫌いになったから遊んでくれなくなったんでしょ、憶えてる? わたし、喜んでくれると思ってたの、だって、パパはああすると喜ぶから」
 小夜は、両手で顔をおおった。指の間から、こぼれたものが、ワンピースの膝の上ににじんだ。
「わたし変なの。わたしが好きな人は、みんなおかしくなっちゃうの……冬哉くんもわたしのことが嫌いになったんでしょ。もう、いなくなっちゃう。わたし、そばにいて欲しかったの」
 ぼくは、身を乗り出して、小夜の膝の手をとった。
 小夜は動物みたいにびくんっとして、体を固くした。
「大丈夫だよ、こっちにおいでよ」
 ぼくは小夜を引き寄せて、一緒にブランコに座った。小夜はぼくの首に腕をまわして、少しだけ震えていた。
「小夜はつらかったんだね。優しくしてほしいから、優しくしたんだ。ちゃんと見ていて欲しかったんだね」
 ぼくは心の冷たい人間だ。人の気持ちなんてわからない。いつも誰かをがっかりさせるだけだ。
 大人になっても、誰も幸せにしたりできないんだと、思っていた。
 小夜は、ぼくの胸にきつく顔を押しつけた。
「いなくならないで」
「ずっと、一緒にいるよ」
 抱き上げられた記憶なんかはすこしも残っていないけれど、自分の子供を抱いたら、こんな感じなのかなと思う。肌が触れ合っているだけで、安心できるのだ。
「もうしない。冬哉くんがいやなら、もう絶対にしない。わたし嘘なんかいわないよ」
「わかってるよ」
 小夜は、ぼくの胸で赤ちゃんみたいに泣いた。
 震えている小夜はとてもいい匂いがして、ちょっぴり汗ばんでいた。

      終り

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