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【カオライの龍女】(1/4)

喧騒の様子から脳裏に浮ぶのは―

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 喧騒の様子から脳裏に浮ぶのは、船に渡された何枚もの板、忙しく行き来する苦力たち、牛が引く荷台に積み上げられる荷物だ。
「みな、よく働いていますね。やはり、あなたにまかせてよかった」
 アネビヤが言うと、そばにいる男が応えた。
「わたしの成果ではありません。見ての通り、わたしが荷物を運ぶわけではありませんからね。彼らの成果です。あなたはよい部下を持たれた」
 アネビヤは目が見えないので、その様子を自分の目で確かめることは出来ない。むかしは事細かく様子を教えてくれる者がいた。不幸な事件で姉妹のようであったその者を亡くしてしまったが、その代わりにアネビヤは、目を使わずに世界の様子を見ることが出来るようになった。
 かすかな汗の臭いは、上半身を露にし、腰に布を巻いただけの苦力の様子を思い浮かばせ、板を踏みしめる音は、植物の葉で足を包んだ、その日だけのサンダルの形を知らせる。
「人夫たちが手を振っています。応えてやってください」
 かたわらの男がアネビヤに言った。アネビヤは桟橋とわかる方向へ手を振る。声は聞き取れないが、なにか賑わいのような物が返ってくるのがわかった。波の打ち寄せる音で、桟橋は切り出した石を積んだ、すき間の多い構造だとわかる。桟橋と水面の落差はかなりあるようだった。男たちは危険な場所で働いているのだ。
「みんな、あなたのことが好きなのですよ。アネビヤさま」
 そういうこの男の声は、やや表情が欠けた平坦なものだった。声の振りそそぐ位置から長身の男だというのが分かる。声を抑え感情を隠しているのは職業柄だろうか。カザハヤというこの男は、キザシの港の責任者だ。この男には、港での役務、荷の積み下ろしの工面を全てまかせてあった。港の目配りは、簡単な仕事ではない。倉庫と、船と、その間を結ぶ荷車、全ての人夫の足並みがそろわなければ仕事をこなすことは出来ないし、その間に荷物が紛れることは許されない。
 この男には才があり、さまざまな方策を考案し、スラウェシの河口付近にあり保守の難しい港キザシを、カオライ一に賑わう港へ育て上げた。人夫たちの信望も厚い男だった。
「慕われもすれば、憎まれもする。けっきょく足してしまえば、みんな同じなのですね」
「……同じではありません。あなたは数え切れないほどの人間を養っている。宗家の他の家のものとは違います」
「慎みなさい。いらぬ口は災いを呼びます」
「ほんとうの事を言ったまでです。あなたはこの海を変えた」
 港の民衆は、アネビヤのことを『カオライの龍女』と呼んだ。
 龍はスディオ家の印であり、王権の象徴として民衆に知られている。その娘が龍女だ。
 実際に港市を所有するのは、宗主たるスディオ家だ。五宗家はスディオ家の意思を代行するが、権威の源はスディオ家にある。
 過ぎた評判だとアネビヤは思っていた。スガルバヤの海から略奪や暴力を一掃した。そう言われてもアネビヤは、それを鼻にかけるような気分にはまったくならない。むしろ感じるのは途方もない疲労のようなものだ。 
 どうすればましなことになるのかが、アネビヤには見える。だがそれを実行するのには、いつも途轍もない摩擦と抵抗がつきまとう。人間の性は変化を嫌うものだ。これまでも、これからもそうだった。
 規範を守らせるためには、いくつかの賊を根絶やしにしなければならなかった。
 汚職を一掃するために、何人もの港吏を死においやることになった。
 そんな出来事は、アネビヤの望んだことではない。だが決意を示すというのはそういうことだ。なにかをなすのは、誰もかぶりたがらない傷を負うということだ。
 アネビヤのほんとうの望みは違っていた。ひとりの男に愛されて、子供を育てれば、アネビヤはそれで十分だったのだ。
「もしも他の家に生まれたのなら……貧しい港の路地で生まれたのなら、目が見えないわたしは娼婦になるしかなかった。病気で長くは生きられなかったでしょう。ただのめぐり合わせです」
「それでも、あなたは生き残ったでしょう。少なくとも自分のするべきだと思うことをしたはずです」
 カザハヤは、その仕事ぶりと同じように生真面目な男だった。アネビヤの夫とはまるで正反対だ。夫は悪く言えば調子はずれで、よく言えば天真爛漫な男だ。辛抱して真面目に勤めるなどは無理な相談だし、窮屈になれば野鳥のように、きっとやせ細ってしまう。
 一方でカザハヤは、自由とか、思いのままとかいう言葉がまるで似合わない男だった。もともと壁がないところにでも壁をつくってしまうような男だ。その対比がおかしくて、アネビヤは含み笑いをもらした。
「なにか?」
「いえ、なんでもないわ。まるで石と豆腐だと思って、そう思うとおかしかったの」
「わたしが石ですか?」
「そうね、あなたは真四角の石よ」
「では、豆腐は?」
 アネビヤは答えられなかった。なぜだか、カザハヤが傷つくような気がした。ひとまわりも年下のカザハヤは、生真面目で、片意地をはって、危うい感じの男だった。
「さあね、つかみどころのない人もいるわ。まるで魂をどこかに落としてきたみたい。なにをしても憎む気にはならないのよ」
 カザハヤは、アネビヤの手をとった。べつに特別なことではない。じっさい、目の見えないアネビヤは港までの道のりをカザハヤに手を引いてもらってやってきたのだ。だがいまこの時、カザハヤの手が熱を帯びていた。
 後ろめたさに、つい、うつむいてしまった。若い男の手は、ほっそりとしなやかで、わずかに汗ばんでいた。
「その人がうらやましい」
 カザハヤは手に力をこめた。
 この男の、憧憬のようなものに気づいたのはいつからだっただろう。三年前、この男を港の責任者にすえた時だっただろうか。それとももっと昔、薄汚れたぼろを着て、病気でやせ細っていた、道端の乞食を見つけた時だったか。
 やせ細った少年は、必ず恩に報いると約束をして、それを違えなかった。まるで精霊を見るような信仰の目でアネビヤを見上げ、それが切り裂かれるように痛かったのをアネビヤは憶えている。カザハヤは汚職港吏の息子で、まだ子供のカザハヤが道端に放り出されたのは、結局はアネビヤが原因だったのだ。
 ただの気休めだった。償いをして自分をごまかしたいと思っただけだ。
「視察は終わりです。食事にしましょう。もちろん、ご一緒していただけますね」
「報告もありますので」
 飾り気のない言葉だった。報われて当然の、誠実な青年だ。
 かなうことならば、願いをかなえてやりたいと思った。たとえ夫を裏切ることになっても。
 夫は怒るだろうか? それともしおれているわたしを屈託のない笑顔で、大したことではないよと慰めてくれるのだろうか? そのどちらも残酷だと思った。夫にとってではなく、アネビヤ自身にとって残酷なのだ。
 これから起こることを考えると、気が重かった。
「では、行きましょう」
 カザハヤはアネビヤの手を引いた。優しい夫と違い、その手はせっかちで、不器用だった。体の芯に火がともるようだった。アネビヤはこの不器用な青年に、男を感じていた。夫の笑顔が心に浮んだ。
 夫はいつも笑っているのに、いつも泣いているようにしか見えない男だった。


――わたしから目をはなしては駄目よ。
 とアネビヤは言った。はっきり理由を言ってくれればいいのに、とクナリは思う。準備というものがあるのだ。もし危険がせまっているという意味なら、それなりの準備する必要があるし、他の意味なら……多少は心の準備も必要だ。妻のアネビヤは昔から一から十までは打ち明けない女だったが、今回の言動はそれに輪をかけて不可解だった。
 夫の自分がいうのもなんだが、アネビヤは美しい。と、クナリは誇らしげに鼻の下をのばす。
 二人の娘をなしたというのに、ほっそりとした手足はまるで少女のようだし、あまり外には出ないので白い肌はまるで上質の磁器のようだ。腰までの長い髪はつきの侍女が手入れをしていて、たえず流れる清流のように輝いていた。
 薄い布の簡素な服を好んで身に着けるので、陽のもとでは、たいてい体の線が透けて見えている。自分が裸にされたようで落ちつかないが、アネビヤは身なりにかまわないのではなく、わかってやっているのだ。
――あなたの目を愉しませるようにしているのです。
 それは狙いの通りだが、現実にはそばに仕える男たちの目も愉しませてしまっている。
 遠めに見える、あの若い男も、たぶん、犠牲者のひとりだ。
 たまに骨抜きにされ、人生を誤ってしまう男がいる。悪気はないのだろうが迷惑な話だ。もしかしたら自分もその一人なのだろうか? と面白くない考えが頭に浮んだが、クナリはその考えをあわてて打ち消した。考えるのはクナリの仕事ではない。なにしろ空っぽの男なのだから。
 港の屋台の中でも大店のひとつだった。
 鮮やかな極彩色の天蓋は屋号を示すもので、よく見ればどの店の天蓋も微妙に違っている。その店もいつもは人夫でごったがえしているのだろうが、今日は恐いもの見たさで遠巻きにする野次馬がいるだけだ。
 報酬は十分なのだろう。太った店主は上機嫌でアネビヤの後ろにつめている。目がやらしいが無理もない。たいていの男は、アネビヤの前ではああいう顔になってしまう。
 アネビヤは、どんなに料理を並べても、気に入った料理を一口二口箸をつけるだけだ。もったいないことこの上ないが、まあ儀式のようなものだ。あの店にも箔がつき、傷つくものは誰もいない。
「なんだかなあ」
「あの男、アネビヤさまの手を、ずっと放しませんでしたよ」
 グナワンは、クナリの顔を見もせずに、おもしろくもなさそうな声で言った。
「色男ですね。長身でたくましい。顔も精悍だ。師匠より若いし。いい青年じゃないですか」
 グナワンは急速に成長し、とうとうクナリの身の丈を追い抜いた。もう小柄な少年ではない。勉学を重ね、物言いも教養ある人物らしく丁寧で、むしろ貧相なのはしょぼくれたクナリのほうかもしれない。
 アネビヤたちから少し離れた屋台で、二人は麺の料理をすすっていた。クナリはうまいものに目がなくて、いい店をよく知っている。この店は間違いないはずだった。スープは鳥のガラを透明になるまで煮立てたもので、濁らないように唐辛子は刻まずに使っている。米の麺は幅広く打たれていて、ぷつりと切れる食感がたまらない。肉や野菜を景気良く盛り上げただけの店とは違う、ごまかしが効かない逸品だった。
 けれど、クナリがどうだと自慢したいような料理を口にしても、グナワンはうまいとも、悪くないとも言わず、ただ口を動かしているだけだった。
 まったく、がっかりな奴だ。可愛げのない。誰が連れてきたんだ。
「勝ち目ないですね。師匠は捨てられるかもしれません。ぷふっ」
 グナワンは表情をかえずに息をもらした。先ほどから変に無表情だと思ったら、笑いをこらえていたのだ。
「見た目なんか、アネビヤには意味ないだろ。目がみえないんだから。それにおれだってそうひどいご面相というわけでも……」
 たしかに、クナリの童顔はある種の女性には受けがいい。例えば……年配の商売の女性とか。
「いいんですよ、べつに言い訳は」
 いや、べつに言い訳はしていない。
「なにこれ? 罰なの? 妻が若い男といちゃいちゃするのを眺める遊びなの?」
「たまりませんね。わたしならかんべんです」
「おれだって面白くないよ」
「師匠はいつも遊んでいるじゃないですか。ろくに家にも帰らない。アネビヤさまはいつも寂しい思いをしているのですよ。これに懲りたら、夜はちゃんとアネビヤさまのところに帰るべきです」
「だってなぁ……」
「だって、なんですか?」
「おれがいると、弱くなっちゃうんだよな、あの人」
「ん? どういうことですか」
「だからさ、アネビヤはおれの妻であっても、おれの妻でないというか、その……立場があるだろ……普通の女にしてしまっていいのかっていう話だよ」
 グナワンは目を丸くした。
「驚きました。師匠の行動になにか考えのようなものがあるとは夢にも思っていませんでした。失礼なことを」
「いや、それがなんか失礼なんだよね。くそ」
「ま、罰でいいじゃないですか。いい勉強ですよ。なんか面白いし」
「おまえね……師匠に敬意を払うっていうことをしないと。バチが当たるよ」
「なるほど、いまの師匠みたいになるのは困りますね。気をつけます」
 そういって、グナワンは真面目な顔のまま下を向いた。肩が小刻みに震えていた。
――やれやれ、笑いものだよ。
 クナリは、辛味のきいた麺をかきこみながら、アネビヤたちの方をうかがった。
 笑顔で語り合っている様子は、仕事の話だとは分かっていても、胸の奥のほうに爪でかくような痛みをもたらした。これが嫉妬だ。こんな感情は、もう何年も前になくしたと思っていた。
――おれはあの人に頼り切ってしまっているのだなぁ。
 もし、アネビヤがこの世からいなくなってしまったら……。
 クナリの脳裏に浮んだのは、悪鬼のように破壊をくりかえす修羅の姿だ。その獣にはもはや信じるものも、望みもなにもない。ただ世界を憎むだけだ。
 我にかえって、クナリはその心象を、脳裏から追い払った。
 そんなことはありえない。アネビヤは教えてくれた。この世界は守り育てるに値する世界だと。クナリはアネビヤの言葉を信じたのだ。

      続く

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