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私掠行為規範(1/3)

先程、見回りに来た男は、汗臭い体をよせて――

本文

 先程、見回りに来た男は、汗臭い体をよせて、クスハの髪の匂いを嗅いでいった。なにもしなかったのは、興味を失ったからではなく、クスハが商品だからだ。
 船倉には臭い水がたまっていて、揺れる度にクスハの足を濡らした。朽ちかけた木と、以前に積んだ荷物の動物のような臭いが混じっていて、クスハはこみ上げる胃液を飲みこむのに苦労していた。
 売り物でなければ、たぶん、もうひどいことをされている。
 なるべく、大人しくして、いい子にしていないといけない。
 理由を与えれば、男達はきっと、クスハに獣のような事をする。クスハは幼いながらも、自分がどれほど危険な立場にあるのか、おぼろげに理解していた。
 でも、まだ諦めてしまった訳ではない。
 立てた膝に顔を埋めたまま、クスハは故郷の白い砂浜を思い出していた。珊瑚の砂は骨みたいに白い、日差しが強い時は――クスハの故郷では、たいていの場合、日差しは強いのだけれど――目が眩んで、歩けない時がある。
 きっと、助けに来てくれる。
 クスハは唇を噛んで、涙を拭った。
 クスハは、なにも悪いことをしていないのだ。
 きっと、神様は見てくれている。
 ただ、待っていればいいのだ。


 アネビヤの執務する屋敷は、クナリにはやや暗い。屋根があるだけの建物なので、風はきままに吹き過ぎてゆくのだが、軒が長いので光が届きかねるのだ。
 それほどに大きな建物だった。
 外から見ると、傾斜がきつい藁屋根の先端は、空を刺すように尖っている。
 アネビヤの趣味ではないだろうが、この建物はマティラ家の財力の象徴なのだ。
 陶器や、石像が飾られた長い回廊を抜けると、色鮮やかなタペストリーの間に隠れるようにして、この家の主人は立っていた。
「遅かったのですね。今日はどこで暇を潰していたのです?」
 アネビヤは、机の上に並べた布を、指でなぞりながら言った。
 商品の値踏みをしていたのだろう、目が見えないが、アネビヤの目利きは、なまじ目の見える経験の浅い商人よりは確かだ。品の良し悪しは質感に現れるのだ、とアネビヤは言っていた。
 布をなぞる指は、白い肌を這う白蛇のように淫靡だった。
 二人の子供をなしたというのに、アネビヤの姿は、少女のようで昔と変わらない。長い髪の艶を見ると、自分だけがどこか知らない街で余分な年月を過ごしたのではないかと、クナリは不安に思う事がある。
 身に着けていたのは、南の女性が着る丈の長い、ゆったりとしたドレスだ。角度で色味を変える真珠色の生地は見事ではあるが、アネビヤが身に着けるのは、いつもあっさりとした意匠の簡単な服ばかりだった。
 ――わたしには自分の姿が見えないのです。わたしが身に着けるのは、あなたの心をかきたてる物だけ。
 いつだったかアネビヤは言ったが、たしかに清楚な立ち姿は、妻であることを忘れそうなほど、煽情的だった。
 人払いをしていたのだろう、いつも見かける使用人の姿はない。
「なにと言われても、たいしたことは。子供と遊んで、少し酒を飲んだ。眠くなったので、少し眠ったかな? いま、顔を洗ってきたところだよ」
「……わたしが働いているというのに」
「すまん、おれはこういうの無理だ」
「まあ、父と同じです。べつに腹も立ちませんが……それより仕事です」
「仕事……億劫だな」
「いいから、聞きなさい。一週間ほど前、スラウェシの河口を出た船が、半島の先で賊に出会いました」
「うん、だが、それはいつもの事だ」
 この海域では、海賊に出会わずに船を運航する方が難しい。それでも人死にが出なくなったのは、有力な海賊と話をつけ、規範を定めたアネビヤの功績だ。
 私掠行為規範は、五つの約定で成り立っている。
   一度に奪うのは、積み荷の二割まで。
   同じ航海中に、二度襲う事は許されない。
   抵抗にあっても、殺してよいのは一人だけ。
   二人以上殺害した場合は、略取を諦め、撤退すること。
   人を、財として、私掠の対象としてはならない。
 これだけの取り決めが、驚くほどの効果を現した。
 積み荷を全て奪われることがないと分かっているので、荷主も傭兵を雇って抵抗する必要がなくなった。海賊たちも、実力を行使する必要がないので、あえて殺害する理由はどこにもない。
 荷主も海賊も、仕事がやりやすくなったと、内心は喜んでいる。
 割合が分かっていれば、それは通行税となんのかわりもないのだ。
 もともと、賊へと身を投げるのは、飢えた子どもを抱える、困窮した漁村だった。この制度で、クナリには富の再配分が効率よく行われているように見える。
 考え出し実行したのは、目の前にいる女性だった。自分のした事ではないが、クナリは、それを誇らしいと思う。
 ただ、心配なのはアネビヤの安全だ。
 人の世を変えるのは簡単な事ではない。約定を違えた賊に、アネビヤは躊躇なく苛烈な制裁を加えた。金に糸目をつけずに傭兵を使い、必ず、私掠行為規範の存在を思い出させたのだ。血を流すことも厭わなかった。
 スガルバヤでもっとも尊敬を集めると共に、これ以上はない恨みを買っている事を、アネビヤは知っている。だが、アネビヤは城塞にこもるような真似はしていなかった。
 恥ずかしいようなことは、何もしていないと言うのだ。
 それは分かるのだが、クナリは暴力で道理を曲げる、獣のような連中を知っている。
 せめて護衛をつけるように強く言ったので、屋敷の外では傭兵が周囲を警戒している筈だ。
「規範を破った者がいます。その賊は、船を足止めし、乗客の一人を――十二歳の娘ですが――略取しました」
「……アネビヤ、きみの乗客かい?」
「いいえ、違います。けれど、人を、財として、私掠の対象としてはならない、これは港市の取り決める約定であり、スディオ家の認めるところの法です。捨て置けません」
「で、おれはなにを?」
「しかも違反の内容は悪質です。年端がゆかぬ少女を略取し、玩具として売買する意図は明白である上、同じ船上にある保護者の目の前で、泣き崩れるのも聞かず、連れ去ったとの証言があります」
 保護者? 親ではないのか?
「アネビヤ、あの……だから、おれはなにを?」
 すればいいのか、と最後までは言わなかった。あまり、聞きたくなかったからだ。
「違反者を確保し、わたしの前に引き立てて下さい」
 アネビヤは、人を率いる者の厳しい声で言った。
「あの……殺すの?」
「まさか、けれど、償いはしてもらいます」
 それを聞いて安心した。自分の連れて来た男が処刑されるなど冗談ではない。クナリはウサギのように気弱な男なのだ。
「出かける前に、保護者から事情を聴いてください。どこを訪ねればいいか、この机の上に、使用人の置いた覚え書きがある筈です」
 と、アネビヤは言ったが、その覚え書きは机に置いたアネビヤの指の下にあった。
 神経の細やかなアネビヤが、紙の手触りに気づいていない筈はないのだ。
 人払いの意味が、なんとなく分かった。
「どうしたのですか?」
「あの、アネビヤ……まだ、明るいし、使用人もいるかも、いないかも……」
「人払いはしました」
 壁もないような屋敷の中ではあるし、声が届くかと思うと、クナリはなんとなく気後れした。なによりアネビヤの印象を汚してしまうような気がするのだ。
 クナリは、覚え書きを抜き取り、急いで三歩下がった。
「まあ、それはどんな意地悪? わたしに恥をかかせるのですね」
「ごめん、アネビヤ。旅から帰ったらゆっくり」
「意気地のない人……」
 そういってアネビヤは笑った。悪戯のつもりだったのかも知れない。
 部屋を出る途中で振り返ると、目が見えぬはずのアネビヤは、クナリの方を向いて、妖艶に微笑んだ。クナリが目を奪われているのはお見通しなのだ。
 この人にはかなわないな。そう思いつつ、クナリは部屋を出た。


 保護者というには、やや怪しい人達だった。
 まず、中年の太った女性だが、けばけばとした厚塗りの化粧に、母親のような印象は皆無だった。料理も出来ぬと言ってしまえば、偏見になるかもしれないが、ずらりと指輪の並んだあの指で作った料理を口にしたいとは、少なくとも、クナリは思わなかった。
 父親と名乗る男も普通ではない。まずは年が女とは釣り合わない、二回りも若いような陰気な男だ。髪を油で固め、それなりの年に見せようとしているが、クナリの目には芝居の化粧のように映る。
 貿易商を営んでいるらしい。船は持たず、契約のもとに荷を動かすだけの、まあ、山師のような物だ。
 それでも事業に失敗しているわけではないようだ。目抜き通りに面した石造りの屋敷は立派な物で、この部屋にも、遠い異国から運んだらしい、象の牙だの、青磁の壺だの、主人と同じように怪しい逸品が並べられている。
 珍しい茶だと、黒い液体を勧められた。香ばしい匂いがしたが、クナリはそれどころではなかった。
 椅子は西洋のものだろうか、真鍮の鋲で革が張ってある。正直、鋲が背中に刺さって痛い。
「いま、どのような目にあっているのかと思うと、夜も眠れないのです」
 女は、手巾で目じりを拭った。
 手巾には化粧の色が移った。
 その少女は養子なのだという。身寄りがない、貧しい漁村の娘を迎え入れたというのだ。
 ほんの数か月前のことだそうだ。
 クナリは、椅子に掛け直し、痛くない場所を捜した。これは拷問か?
「なるほど、相手はどのような者たちでした?」
 女は、声を低くして、クナリに詰め寄った。恐怖を感じたクナリは軽くのけぞる。
「実は調べはついているのです。朧鬼という最近の海賊で、船員達も間違いがないと言っていました」
「朧鬼……おぼろのおに、ですか?」
 恐ろしげな名前だ。名前通りの連中であれば、あまりお近づきにはなりたくない。最近の海賊連中は、もったいぶった名前をつける。
「そう呼ぶそうです。どこに現れるのかわからず。霧が晴れるように消えてしまうので、そのような名前がついたとか」
「そこまで、分かっているのなら――」
「ご存知のように、」
 女はさらに詰め寄って来た。
「海賊のほとんどは、食うに困った漁村の漁師たちです。普段は、普通とかわりない村で暮らしております。大げさに動いたのでは、正体を突き止める事が出来ないのです」
「で、わたしですか?」
「実は、この村ではないか、と噂を聞き、人をやりました」
「それで、どうでした?」
「田舎の漁村はよそ者に対する警戒心が強いのです。村に海賊が潜んでいるのは確かですが、村人が隠せば、見つけるのは容易ではありません」
「それは、わたしが行っても同じでしょう?」
「いいえ、あなたのような――」
 そこで女は口ごもった。あなたのようなうつけ、とでも言いそうになったのだろうか?
「知恵物であれば――」
 やはり、そう思っていたのだな。
 クナリは目を細めて女を見た。あまり知恵を披露した覚えはない。披露したのはあくびと、くしゃみくらいのものだ。
「探りの入れようもあるのでは? アネビヤ様にご面倒をおかけするのも、おそれ多いことなので、最初はどうかと思いましたが、せっかくお声を頂きましたし、なにより、娘のことが心配で」
 なんとも気が進まないが。立場上、自分で行けとも言えない。
 アネビヤも、頼まれたのでないのなら、放っておけばよかったのに。
 クナリは仕方なく、アネビヤの言う通りにする事にした。知らずにため息が出る。
「わかりました、順番にいきましょう。お嬢さんの名前は?」
「クスハと言います。可愛い子なのです」
「なにか、特徴は?」
「……可愛い娘でした」
 ますます、怪しい。実は顔を覚えていないのではないのか?
「男達は何人くらい?」
「六人、だったと聞いています。背格好はバラバラですが、みな、黒い布で顔を隠していたと」
「六人か……」
 仮に荒事になったとしたら、六人の屈強な男となると、手に余る人数だ。誰か連れて行くか……しかし。
 心当たりがない。
 友人もなければ、知人、盟友の類もいっさいない。
 仙人か? おれは普段、どのような生活をしているのだ? 
 考えても、思い出すことができなかった。
 まあ、いい。とクナリは応援については諦めた。手に負えなければ、逃げればよいだけの事だ。
「……クスハ、六人、応援なし」
「は?」
「失礼、頭に入れただけです。他になにか聞いておくべきことは?」
「朧鬼を統率していたのは、子供のように小柄な男だったそうです」
 おもしろい手がかりだった。
 子供のような? 女かもしれない。誰も顔を見ていないのだから、男と決まったわけではない。
 クナリは頭に入れて、茶の礼を言った。
「引き受けました。今夜立ちます。どうか、諦めずに待ってください」
 おざなりな挨拶をして、クナリは部屋を出た。屋敷を出るふりで歩き、しばらく待ってから、クナリは部屋の前まで戻った。
 どうにも、合点がいかなかったからだ。
 まずは夫婦ではないだろうし、夫婦でないのに子供を欲しがったりもしないだろう。養子にもらって、すぐにさらわれるというのも妙な話だ。
 人をやって調べたと言うが、クナリの場合、愛する娘であれば、他人をやらずに自分で現地に向かう。
 部屋を覗き込むと、男の背中が見えた。男の顔は分からないだが、女はにやにやと笑っていた。
 たぶん、馬鹿な男をうまく騙したと、話しているのだろう。
 やはり、この偽夫婦はなにかを隠しているのだ。


 アネビヤの前に戻り、委細を報告すると、アネビヤは顔色も変えずに、
「そうですか」
 と、言っただけだった。
「いや、そうですかではないよ。あれは何かある。だいたいきみは、あの義理の母親とかいう連中の事をなにか知っているのかい?」
「いいえ、なぜ?」
「そこは、気にしようよ」
「わかりました。調べさせます」
 アネビヤの目の前には、豪華な夕食が次々と運ばれているところだった。
 テーブルは、船で使う綱を巻いていた、大木の切株だ。
 普段、アネビヤは小食で、欲しい物だけを伝えて質素な食事をしている。こんなに料理を運ばせても、どうせ手も付けずに返してしまうだけだ。
 鳥の羽を揚げ、辛いソースをかけた物や、ココナッツミルクの色をした野菜のスープ、米の麺を香味野菜と炒めたもの、料理は、つぎつぎと運ばれてくる。
 クナリの腹が鳴った。体は正直だ。そう言えば、寝てしまったので昼はなにも食べなかった。
 そもそも、アネビヤが来るような店ではない。
 かろうじてテーブルはあるが、辻に開いている露店は、港湾の労働者が利用するものだ。
 店の主人は、青くなって日よけを用意したり、見物の人だかりを追い払ったりしている。
 人の多さに、二人の護衛も戸惑っていた。
「あなたの分はありませんよ」
 すました顔でアネビヤは言った。
 どうやら、先程の事を怒っているらしい。まったく、予想がつかない人だ。
 クナリと分かれた後、なにかのはずみで、感情が怒りに切り替わったのだ。
「どうせ、あなたにはもう魅力のない女なのでしょう。好きなだけ食べる事にしました」
「いや、アネビヤ。違うんだよ」
「なにが違うのです」
「男って、繊細な生き物でさ」
 アネビヤは、鼻で笑った。
「まあいいでしょう、それで、わずらわしい年増に、いったい何の用ですか?」
「だから、違うんだよアネビヤ」
「用件をどうぞ」
 なにか言おうとして、クナリは諦めた。強情な人なのだ。時間をおいて頭を冷やして貰うしかない。
「娘がさらわれた時の事だけど、他の積み荷はどうだったんだい?」
「手付かずです」
「手付かず? 規範に従う職業海賊が、わざわざ船を止めて、積み荷を無視して少女を一人だけさらったということかい?」
 それほどの値打ちがある少女なのだろうか?
 男をとろかすような魔性なのだろうか? それともなにか普通では無いような手管を持っているとか……。
「言っておきますが、」
「はい」
「金を払わずに女を抱くことを、わたしは遊びとは認めません」
「うん、な、なんでそんなこと言うの?」
「いいえ、言ってみただけです。もう行きなさい」
「あぁ、わかった。行ってくるよ」
 クナリはアネビヤの頬に軽く触れた。一瞬、アネビヤはその手を握り、頬へ押しあてる。
 人をかき分けて歩き出したクナリの耳に、かすかな呟きが届いた。
「息遣いだけで分かるのよ、馬鹿……」

      続く

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