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【 疫病神 】(1/4)

個室には調子が外れた感じのボカロ曲が―

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 個室には調子が外れた感じのボカロ曲が鳴り響いていて、ちょっとシュールなその世界観が日常を侵食していた。
 シックな内装の個室は、間接照明で雰囲気を出していて、最新の音響設備はリアルな臨場感を持っている。テーブルにはレストランみたいな料理がいくつか残っていた。
 カラオケの店としては上等な感じだった。
 つい先ほどまで、おつかれさまでしたー! みたいに盛り上がっていたのに、気がついたらわたしは時々頬に平手打ちをされながら、男のものを口に含んで、馬鹿みたいに涙をこぼしていた。
 べつに深い理由はない。ただ、人間の体は嘔吐を我慢すると涙をこぼすように出来ているのだ。
 ドアには細長い窓もあって、通路には店員もいるのに、誰も助けにはこなかった。
 テーブルの上で四つんばいにされて、わたしは胃液を吐くまで喉の奥を突かれている。誰かがスカートをまくり上げて、わたしの中へ乱暴にマイクを突っ込んだ。スピーカーから湿った肉の音がした。テーブルの上にはさっきまで飲んでいたピーチウーロンがジャブジャブと音を立てて水溜りになっている。男が腰を突き出すたびに、わたしは体のどこかから液体を噴き出した。
「下のお口は、いい声で歌うわね。上のお口よりマシだわ」
 笑ったのは登坂水絵だ。会社では大人しい感じの娘で、仕事はそこそこ出来て、上司の受けもいい。責任感が強いので、派遣さんも頼りにしている。まだ若いのに会社の業務をよく理解していた。絵に描いたような模範的な社会人だ。
 だから、こういうことをするのだ。
 バランス感覚に優れた娘だった。髪の色は薄くなり過ぎず、化粧は派手になり過ぎず、なれなれしくなり過ぎず、よそよそしくもない。平均的な身長で、平均的なバストで、顔立ちには愛嬌がある。友達の妹みたいな感じだ。肩くらいまで切りそろえた髪が、確かに普通だった。
「あんたなんか、なにをされても文句なんて言えないのよ。部長が下着を脱げといったらそうするべきだし、足を開けといったら、ちゃんと自分で濡らすべきなのよ。意味がわからないわ、どうして不満なんかが許されると思ったの?」
 わたしは不満なんか口にしてはいない。部長が告発されたのは、私以外の誰かから嫉妬をかったからだ。わたしはただの巻き添えだ。でも、この登坂水絵にとって分かりやすいストーリーは、わたしが部長を誘惑して、なびかないので罠に嵌めた、というものだ。
 現実とは、ぜんぜんピントがずれているけれど、でも人間はそういう生き物だ。
「部長がどんな人か知ってるでしょう? 人格者なのよ。あなたなんか、ただ哀れみをかっただけなの。みじめで、かわいそうだと思われただけなのよ」
 わたしにしてみれば、哀れなのは登坂水絵のほうだ。
 君が大切だから別れる。しょせん、ぼくは妻子もちなんだ、とかそんな見え透いた嘘を聞かされて、酔っているだけだ。頭が悪いので、あるいは良過ぎるので、見え透いた嘘を信じたがってしまったのだ。
「なんなのよ、その目は、あたしを馬鹿にしてるの?」
 人間は、こういうことにだけは感が鋭い。
 わたしはテーブルの上で四つん這いだけれど、黒っぽいスーツのままだった。まだ服は脱がされてはいなくて、中途半端に下着を引きずり下ろされているだけだ。尻尾みたいに生えたマイクを、登坂水絵は乱暴にこねまわした。
 わたしは唇を噛んで苦痛に耐えた。プールに潜っているようなこぽこぽという音がスピーカーから響いた。
 心臓の鼓動のような音が聞こえた。おなかにいる時の赤ちゃんは、こんな音を聞いているのかもしれない。
「馬鹿にしてるの? ねぇ! 馬鹿にしてるの」
「……ごめんなさい。ゆるしてください」
 わたしの声は、涙で湿っていて、子供みたいだった。
「許すわけないじゃない」
 登坂水絵は、足の裏で突き出したマイクを蹴飛ばした。内臓が口から出るかと思った。でも口は男のもので塞がれているので、わたしはおしっこをもらした。水溜りが膝を濡らした。
 男の声がげらげらと笑った。
「くさいわね、年をとると臭くなるのね。部長もよく、こんな年増に我慢したわね」
 たぶん、部長なんて関係ない。登坂水絵は、ただ単純にわたしを憎んでいるのだ。
 人間は、とても勘がするどくて、すぐにわたしのような存在を見抜いてしまう。
 異物を見抜き、自分の属するコミュニティを守ろうとする。
 まるで、白血球のように。


 部長、木原達也のことを言えば、登坂水絵よりわたしのほうがよく理解している。面倒見がよくて、落ち着いて思慮深く、人当たりのよいケダモノだ。あの手この手で、結局は自分の思いをとげる、そこまで思いのままに状況をコントロールできるのは、相手を人間だとは思っていないからだ。
 外見上は、高級なスーツを着こなした裕福な感じの中年だ。白髪交じりの髪が、逆に精悍な印象を与えている。瞳はエネルギーに満ちていたが、じつはそのエネルギーの大半は利己的な欲望だ。
 ああいう人物を、人間はサイコパスと呼ぶ。共感することが出来ず、相手を材料としか理解できない人間だ。
 許したのは面倒だったからだ。思いを遂げるまでは、際限なくつきまとう、たくみに、不快感を与えないように、日常を侵食してくる。偶然を装ったり、善意を装ったりする。恩を売るチャンスを見逃したりはしない。
 一度だけで、興味を失ってしまうのは分かっていた。だから、木原達也の言うとおりにしたのだ。
 監査部には、誰にも言わずに出頭するように言われた。だから、部長はしくじったのだとすぐにわかった。
 関係を強要されたのかと聞かれ、そんな事実はないと答えた。
 監査部の若い男は、生真面目な顔で、ここでの会話は誰にも知らされることはないと言った。
 そんなのは嘘だ。人間はそういう嘘をつく。
 もう、遅いとわかった。わたしはだしにされたのだ。誰か木原達也の失脚を狙う連中が、わたしを利用したのだ。人間の世界は、そういう謀略に満ちている。
 木原達也は、地方支所への転勤が決まった。
 なんの解決にもなっていない。この手の男は、どこにいたってうまくやるに決まっている。すぐに自分の利益を最大限にしてみせる。
 転勤なんて、ただのジェスチャーだ。浄化するには切り捨てるしかない。
 けれどわたしは、木原達也が不利になるような証言なんて、一つもしなかった。
 通路ですれ違うと、木原達也は慈愛に満ちた声で言った。
「わたしは後悔はしていないよ。これはわたしの望んだことだ。たとえ、結果がどうであろうともね」
 わずかな可能性でも、この手の男は無駄にはしない。
 非難するより、善人を装うのが上策だと考えたのだ。
 一つ目に、この男は実害はなにもないと理解しているし、二つ目に、負い目をもつ人間は従順になると知っている。他人を利用し続けた長い経験が、本能的に、どう振舞うべきかを知らせるのだろう。
 どちらにしても、この男もわたしが企てたことだと思っているようだった。
 そこで、気がついた。
 部長、木原達也は部下に慕われていて、人望があって、崇拝者が居た。
 木原達也に弓を引いたと思われた以上、もう、ここで働き続けるのは不可能だ。
 嵌められたのは、部長ではなく、わたしの方じゃないのだろうか?
 誰かがわたしを憎んでいるのだ。木原達也のキャリアなど問題じゃないくらいに。
 潮時だと分かった。わたしは誰も憎まないし、誰も傷つけようとは思わない。でも、人間はたくみに異物の臭いを嗅ぎ分けるので、何年かに一度、社会的な位置関係をリセットする必要に迫られる。
 でないと、誰かが血を流すことになる。
 わたしは、退職を決意した。五年働いた職場だ。もう年は三十の半ばになろうとしていた。たぶん、今以上の給与は、もう望めないだろう。

続く

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