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アネビヤの婚約(2/3)

アネビヤとクナリは惹かれあいますが、事件が起こります。

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 アネビヤの衣裳部屋は、それは広いもので端まで歩きつけた記憶がない。祖母の形見にかけて、アネビヤに見苦しい恰好はさせられない、というはした女のカヌワのこだわりがこの部屋に現れている。
 白土で塗りこめられたこの部屋は、幼い頃からアネビヤとカヌワの秘密の語らいの場所でもある。いつの間にか二人とも少女ではなくなり、カヌワは結婚をして二人の子供の母となった。
 そんなカヌワも、二人だけの時は少女のように話す。二人は主従関係以前に、長い時を共に過ごした幼馴染で、盟友でもあるのだ。
「あれでも、使い手なのだそうですよ」
 アネビヤの気持ちを確かめるように、悪戯っぽくカヌワは言った。手は休むことなくアネビヤの髪を整えている。
 あれでも、は余計だと思ったが、まあ、アネビヤも少し頼りない印象は受けた。
「杖を用いての技では、手練れの傭兵にも後れを取ることはないとか」
「評判なら、わたしも聞いています。女遊びの好きなムルアナ家の四男坊。宗主たるスディオ家を直衛する家柄に生まれながら、日がな一日、女子供のご機嫌伺いとは、なんとものどかなご時世になったものです」
「アネビヤ様。世間は勝手な事を言うものです」
「遊びが悪いとは言っていないわ。ただ、少し……」
「頼りない?」
「そうね」
「昔から……アネビヤ様はそれに弱いのです」
「それとは、なに?」
「母性をくすぐるような、生き物に弱いのですよ」
「犬や猫じゃあるまいし」
 カヌワは、くすぐったいように笑った。
「気に入ったのでしょう、アネビヤ様」
「もう、逃げ回るのを、諦めただけです」
 アネビヤは目が見えないので、クナリがどのような容姿をしているのかは、分からない。ただ、声と気配で人を知るだけだ。少年を思わせる、幼い声ではあった。寂しげな笑いが、カヌワの言う通り、保護欲を誘うような感じでもあった。
「どんな方でした?」
「アネビヤ様と同じです、幼い顔で二十三には見えません。少年かと思いました。剣も杖も帯びてはおりませんでした。衣服は……粗末なもので、たぶんご実家では大事にされていないのでしょう」
「またそんなことを。その手には乗りません」
「ご立派な姿をさせてあげたいとは、思いませんか?」
「……わたしには、姿などわかりません」
「あら、ではなぜ、それを聞くのでしょうか?」
「……意地悪ね。いいわ、白状します。少し気になるのです。でも、まだ会ったばかり。なにもわかりません」
「そう言えば」
「なに?」
「言っていいのかしら」
「……」
「ねぇ?」
 カヌワは意地悪な声で言った。アネビヤをからかっているのだ。
「……わたしが叫びだすまで、教えないつもりなの?」
 カヌワは幼い頃と同じように、からからと笑った。
「クナリ様は腕に怪我を。少し血が出ていました。たぶん、喧嘩でしょう。ああ、見えてクナリ様はけっこう、やんちゃなのでは?」
 カヌワは笑ったが、アネビヤは笑う事が出来なかった。
 アネビヤを苦しめているのは、忌まわしい過去の記憶だった。
 アネビヤの大切な人達が、傷つけられ、不愉快な思いをする。悪くすれば命まで奪われる。そんな想像が頭を離れない。それは呪いのように、アネビヤにつきまとっている。
 もう、なにもかも終わってしまった事なのに……。
 まだ会ったばかりなのに、アネビヤのせいで、クナリはなにか揉め事に巻き込まれたのではないか、そんな風に思い、アネビヤは胸の悪くなるような不安を覚えた。
「アネビヤ様、大丈夫ですか? お顔色が」
 カヌワは、アネビヤの手を握った。
「なんでもない。少し思い出しただけよ」
「二年前、アネビヤ様はわたしに暇を出されました。ほんの一月ほどの間ですが」
「そう、だったかしら?」
「わたしの産後を気遣ってとのことでした。でも、出産の休みはちゃんと頂いておりましたので、おかしいと思っておりました」
「おかしくはないわ……カヌワは疲れていたもの」
「その間、アネビヤ様のお世話をしていた者は、金を渡し、暇を出したと聞いています。その後、どこで暮らしているのか、誰も知りません」
「その者は、事情があってスガルバヤを去りました」
「衣服や、飾り、宝石の大半が消えていました。聞けば、父上が大事にしておられた骨董の類も、その時期にいくつか、見られなくなったとか」
「黙りなさい、カヌワ」
「黙りません。アネビヤ様」
 カヌワの声が、少し湿っているのが分かった。鼻をすする音がする。カヌワは泣いているのだ。
「……わたしにもお話いただけないような事なのでしょうか」
「話しません。話せば、おまえにも害が及ぶかも知れません」
「アネビヤ様!」
「もう、決めた事です」
 カヌワは口をつぐみ、握った手に力を込めた。
 有り難いことだと思う。こうしてアネビヤの身を案じてくれる人達がいる。光が無くとも、普通でない家に生まれても、人には言えない様な体験をしても、それでもやはり人生は美しいのだと思う。たぶん、誰にとってもそうなのだ。
 やはり、この縁談は断ることにしよう。
 アネビヤは、クナリの優しい声を思い起こした。
 何も知らない子供のような人だ。わたしのような女とは関わらない方が良いのだ。

 三艘の小舟が行き交うのがやっと、といった感じの石造りの水路だ。
 水路上には、汁物や焼き料理を供する屋台船が浮かび、水路を行く客に、店主が声をかけていた。屋台の天蓋は屋号を表す極彩色で、水路に連なる様子は熱帯の花を思わせる。
――安くしとくよ。腹いっぱいにしていきな。
――なんだい、そのひょろ長い体は、そんなんじゃ女の相手も出来やしないよ!色男が台無しさね。
 クナリは金を渡し、幅の広い麺に香草をあしらった料理を受け取った。容器は殻の固い果実を真っ二つに割ったもので、使い捨てだ。よく見ると、水路には同じような椀があちこちに浮かんでいる。
 香辛料と香草の臭いが鼻をつく。クナリは細身のわりに食い物には目がない。食事にこだわるのはクナリのポリシーでもある。
 この世には三つの快楽がある。
 一つは食事。
 二つめは女。
 三つ目は平穏だ。
 枝を折った粗末な長箸でかきこんだ麺料理は、快楽の名に恥じる事がない出来栄えだった。米で造ったあっさりした麺と、紅く染まるほどに辛い調味料に、香草の爽やかさが何とも言えない調和を醸し出している。
「……うまい」
 思わず口にしたクナリを目にして、渡し船の船頭は笑った。
「屋台の飯を、そんなにうまそうに食うたぁ、旦那はよっぽど女に恵まれてねぇんだな」
 ある意味、船頭の言う通りだ。
 クナリは母の顔を知らない。
クナリの育った家は、このスガルバヤと呼ばれる港市でも有数の武家であり、女は子をなす為の入れ物に過ぎない。事実、クナリの母も、赤子を産み落とした後、十分に回復する間もなく、少々の金を渡して追い払われたと聞いている。
もし、母親がそれを承知でクナリを産み落としたのなら、出産は、ただ金の為という事になる。
 ひどい話だ――と、人ごとのようにクナリは思う。
 物心つく前から、生活は武術の修練と、語学の習得に埋めつくされていた。なにしろこの海域では、数百もの異なった言語が使われている。隣の島では違う言葉というような不可解な現象が平気で起こる。言葉が通じないのでは、目の前で殺害の相談をされても知る事が出来ないのだ。戦闘行為を生業とする者にとって、語学は必須の生存術だった。
 だから、女性の愛情とか、ぬくもりとかいう物の記憶は、幼き日のクナリにはない。暖かくうまい手料理も知らない。食事とは体力の維持の為、奪われぬように争ってかきこむものと決まっている。
 そんなすさんだ少年時代が、今になって母性への強烈な憧憬を生み出しているのかも知れない。今や女色はクナリの生活の中心と言ってもいい。ただ、素人を相手にするのはやや気が引けて、相手は商売の女ばかりだ。
 無理もない、とクナリは空になった椀と箸を捨て、溜息をつく。
 俺は、家庭がどのような物か教わった事がないのだ。普通の女は、家庭を作れない男と結ばれたいとは思わないだろう。
「見た所、旦那は女を知らないね。そんな感じだ」
 人の気も知らずに、年老いた船頭は言った。
「馬鹿言うなよ……この年でそんなわけないだろ」
「いいや、あっしには分かりやすぜ。普通の男はね、綺麗な女が横を過ぎれば、一度は想像してみるんです。その……いたしたらどんな感じかね。旦那はね、目つきが違う、旦那は女の事を神様か、精霊か、なんか違う生きものみたいに思ってる。違いやすか」
「そうか? そんなふうに見えるのか?」
「旦那、女だって生き物ですぜ。しょんべんもすりゃあ、大きい方だってする」
「身も蓋もないな。正直、そこは想像したくない」
「たまには寂しい思いもしたり、体が火照ったりもする、つまり……旦那と同じでさ」
「……なるほど、そう言われれば、それはそうなのかもしれないなぁ」
 女性に夢を抱いているのかと言われると、正直、自分でもよく分からない。
 八つも年上の女に金で買われるのは、あまり、夢のある話でないようにも思う。
 世間ではよくある筋書きだ。
 武家では役に立たぬ余計者を、口減らしの為に厄介払いしたいと思っている。自尊心は売るほど持ち合わせているが、懐の具合はさっぱりの不器用な家柄だ。一方で商家は男子に恵まれず、娘は売れぬままに年老いて、後継者を得るには男の種が必要だ。先立つ物は腐るほどに蔵に積み上げてあるが、少々、家名に箔が欲しいとも感じている。
 取引は成立だ。
 口さがない者は、金にあかせて子種を買ったと噂するだろう、それを思えば、アネビヤが気の毒な感じがしないでもない。
 違和感を覚えたのは、そんな事を考えている時だった。
 約束の場所は、高級な宿屋の一室で、目の前だった。この辺りはスガルバヤでも指折りに賑わっている通りで、いつでも市場が立っている。
 集う人々は、みな、金の話で夢中だ。
 分けもなく辺りを見渡す、ヒマつぶしの男など、市場に居るはずがないのだ。
 その男は、船を降りたクナリに、迷うことなく歩み寄ってきた。
 小柄だが、がっしりとした体つきの男だ。身なりは港の荷を運ぶ人夫のようでもある。品のないひげ面は知らない顔だ。クナリに用があるとも思えない。
 クナリは気がつかないフリで、香辛料を売る店の軒先に、顔を突っ込んだ。
 襲われるのはこれで二回目だ。一度目は最初にアネビヤに会った時だった。これは偶然ではない。
「味見してもいいかい?」
「かえんな。冷かしはお断りだ」
 という声も気にせず、クナリはスパイスの瓶に手を突っ込んだ。
 振り返ると、小柄な男は、腹帯に仕込んだ刀身の薄いしなやかな剣を抜き放つ所だった。
 普通、暴力を生業とする人間は、その得物を隠すような真似はしない。
 人が怯え、疎ましく思う事が、その生業を支えているからだ。
 長剣やこん棒をひけらかすのが当たり前で、武器を隠してしまったのでは、いちいち、自分がどれほど危険な男なのかを説明しなければならなくなる。
 武器を隠すのは、人を脅すのではなく、人を殺めることを職業とする人間だ。
 みぞおちの辺りで、胸が悪くなるような憤りを感じた。
 暴力で、道理を曲げようとする連中に、クナリは嫌悪感を押さえることが出来ない。自分の育った家が、その連中の姿に重なる。力だ。正義も、道理も、思いもない。ただ力だ。力で人の思いを、ご破算にしてしまう連中だ。涙も、嘆きも、願いも、この獣のような男達には関係がないのだ。
 クナリがはなった香辛料を避け、男は腕で目を庇った。
 ほんの瞬きの間で、クナリはぴたりと、男の手元に身を寄せていた。
 男は間合いを詰められ、剣を抜くことも出来なかった。
 さがって間合いをとろうとする男に、クナリは影のように寄り添って、離れなかった。
 男は苛立ち、剣を諦めた。
 クナリの喉元を掴もうとする腕を取り、クナリは簡単に関節を極めた。
「俺は、なにか命を狙われる様な事をしたのか?」
 男の顔は、思わぬ成り行きに驚いていた。男にとって獲物は常に無力なものでなくてはならないのだろう。その表情は、信じられない、といった感情が半分以上だった。
 クナリは男の上腕をへし折ってから、首に腕をからめて、意識を落とした。
 目覚めて面倒な事にならぬよう、クナリは薄刃の剣を、男から取り上げた。
 確かめると、よくしなるが強靭な鉄でもある。面白い武器だ。
 実家の道場では『腰抜け』と呼ばれるクナリだが、この程度の連中に後れを取ることは、体に刻まれた訓練が許してくれなかった。
 女の悲鳴が聞こえた。
 カヌワとかいうはした女の声だ。助けを呼ぶ声は、途中で途切れた。
 後ろ髪が逆立つのを、クナリは感じた。

 扉の外で、濡れた雑巾を叩きつけるような音がした。
 続いて聞こえたのは、護衛たちの断末魔の声と、遠慮のない足音だった。
 人数は五人。走っているのは四人だった。
 アネビヤは異変を悟り、呆然としているカヌワに言い放った。
「窓から逃げなさい! わたしは大丈夫です。なにをしているのカヌワ!」
 水路の錯綜する、港市でも、もっとも賑わった通りにある宿屋だ。
 護衛を二人しか連れてこなかったのは、まさかこんな場所で無法を働く者がいようとは思わなかったからだ。
 父が来られなかったのが、せめてもの幸いだ。
 やがて扉が開き、今度こそ事態を悟ったカヌワは、アネビヤを守るようにして大声を上げた。
「何者ですか! この方を誰だと思っているの! こんなことをして無事に済むとでも――」
 返答の代りに、鞭を鳴らすような音があり、アネビヤは生暖かい液体を浴びた。むせ返るような生臭い匂いで、それが人の血であるとわかった。
「……カヌワ?」
 返事はなく、ごぼごぼという音がしただけだった。アネビヤは床を探りカヌワの姿を捜した。
「カヌワ、どうして返事をしないの?」
 手を掴み、アネビヤの体を引き起こす者があった。その者は、たくましい腕で荷物を担ぐように、アネビヤの体を肩に担ぎ上げた。
「……この者達がなにをしたと言うのです」
 アネビヤは、自分を担ぐ男に、言った。
「なるほど、気づいていたのか? どうしてわかった?」
 予想していた通り、男の声には聞き覚えがあった。男の声は忌まわしい記憶と重なっている。思い通りにならない者を、辱め服従させなければ安心する事ができない、ケダモノのような男なのだ。
 金で片がつくと思っていたのが、間違いだった。
「初めて会った時、クナリ様は腕を怪我していました。あなたが襲ったのですね」
「ほう、それだけで分かったのか」
「殺すなら、わたしを殺せばいいのです。この者たちにどんな罪が――」
「罪などは知らん。お前を殺したりもせん。それは見当違いだ。そのかわりに、おまえの父を殺す」
 世の中には卑怯な男達がいて、財力も、知恵も、心の強さもかなわぬと悟った時、自分のよく知る手段に頼ろうとする。自分が怖れるので、相手も暴力を怖れると思うのだ。
「おまえの使用人も殺す」
 男は、壊れた楽器のように調子の外れた声で言った。
「…クナリもだ」
 静かな怒りは深く沈んで固まり、心が、救いようがないほどに冷え切っていくのをアネビヤは感じた。
「手足を切断して娼妓にし、目を背けるような醜い男達に、お前を与えよう。以前のようになぶり者にしてやる。暗闇の中で許しを請うがいい」
 屈辱を与える事が勝利だとでも言うのだろうか。女など痛めつければ、涙を流し、命乞いをすると思っているのだろうか?
 なら、試してみればいい。
「……命乞いをすれば、満足でしょうか」
アネビヤの静かな声に、男は動きを止めた。
「怯えて、逃げまどえば、あなたの心は晴れるでしょうか」
 静かな声に、男は怯んだ様子だった。
「だまれ」
「かわいそうな人」
「呆れて、口の減らん女だ。後で楽しみにしておれよ」
 それきり、男はしゃべらなかった。
 冷え切った心は、怒りも悲しみも受け入れず。アネビヤはただ、けして涙など見せぬと、呪文のように心に繰り返していた。
 

      続く

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