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【カオライの龍女】(2/4)

目が見えないとはいっても、長年の訓練で―

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 目が見えないとはいっても、長年の訓練で、見苦しくないように口に運ぶくらいのことはできる。けれど、ほんとうのところ、アネビヤに料理の味はわからなかった。遠巻きにする野次馬のざわめきだけが、なぜか耳について、アネビヤの心をかき乱した。
 食事の間も、カザハヤの報告は続いた。
「船員に、船倉の一部を報酬として貸し与えるのはよい策でした。賊に奪われる積荷が減少したのは、船員が真剣に賊との交渉をすすめたからでしょう。誰しも自分のものは奪われたくないと思うものです」
「おてがらね」
「アネビヤさまの指図のとおりにしたまでです」
 カザハヤはそう言った。話の頃合だった。
「……わたしの言葉には必ずしたがいますか?」
「命にかえても」
 アネビヤは、しばらくの間、口を開くのをためらった。だが、なしくずしにしてしまうことはできない。堤が崩壊するのも、最初のきっかけは小さな水漏れだ。小さな穴が少しずつ広がり、周りを巻き込んでいずれは大きな濁流となる。そうと分かっていることに決断を出来ないのでは、人の上に立つ資格はない。
 アネビヤは辛い決断の代償を払ってきた、これは数多く重ねてきた支払いの一つにすぎない。アネビヤは自分に言い聞かせた。こんなことはこれまでにも起こったし、これからも起こる。いちいち怯むわけにはいかないのだ。
「……では、北の十二番から四十番までの倉庫。帳面と現物の照らし合わせを行います。連れて来たこの男――」
 アネビヤは背後にいるはずの男を振り返った。
 取引と約定の番人であるサラーラ家から出向いてもらった男だ。この男の確認した事柄は、スディオ家の法で認めるところの、疑いのない事実となる。名前は知らない。特に算術に強い男と聞いている。それだけで十分だった。
「この男の立会いの下に確認します。出来ますね」
 カザハヤは混乱しているようだった。小さな判断の失態だ。アネビヤをあなどった失態だし、なにが利益をもたらすかを見誤った失態だ。あるいは、なにを望むのかを誤ったのかもしれない。だが、それについては、アネビヤはカザハヤを責めることが出来なかった。責任はアネビヤにもあるのだ。
「アネビヤさま……これはいったい……」
「出来るのですか?」
「……」
「出来ないのですね」
 うつむく様子が脳裏にうかんだ。声を失って、息もできないようだった。だが驚愕しているというわけでもない。たぶん、覚悟は出来ていたのだ。利口な男なのだから、永久に続かないことくらいは理解していたはずだ。
「わたしの目を盗むことができると思ったのですか。それとも、わずかな量なのでたいしたことではないと思いましたか」
 荷物の一割、さらにその十分の一ほどが消えている筈だった。アネビヤは市場の値動きでそれを知った。想定される値動きとの誤差分が、不正規に流通している商品の存在を示唆していた。 
 すでに、調べはついていた。横流しで手に入れた金はすべて故郷の貧しい子供達のために使っていた。この男、カザハヤの懐に入った金はない。だが、それでも横流しは横流しだった。
 不正は、いずれは誰かの耳に入り、真似ようとする者が必ず現われる。
 虫に食われる建物のように、人の集まりは秩序と良識を失い、崩れ始める。たった一つの例外を認めることが命取りだった。アネビヤは実際に滅びさる家を目にしてきた。
 カザハヤは特別な男だったが、その為にマティラ家にかかわる多くの人間の生活を危険にさらすつもりは、アネビヤにはなかった。
「どうして……」
 と、アネビヤは問いかけずにはいられない。そうしたいと相談を持ちかけられれば、アネビヤはむげにはしなかった。そして、そのことをカザハヤは知っていた筈だ。不正をはたらく必要などなかったのだ。
 それなのに、カザハヤはあえてアネビヤを裏切った。理由が知りたかった。
 もしかして、自分になにか不備があったのか、それとも……アネビヤは久しく忘れていた不安に胸をつかまれた。子供の頃からつきまとっている恐怖だ。自分のせいで、周りの人々が不愉快な思いをしたり、傷ついたりするのではないかという怖れ。カザハヤはもしかして誰かに脅されていて、それはアネビヤのせいではないのかという不安。
「どうして」
 と、もう一度、アネビヤは聞いた。
 こたえるカザハヤの声は笑みを含んでいた。長年のあいだ一緒に働いて、初めて耳にする優しげな声だった。
「あなたが優しすぎるからです。優しいということは、時には残酷なこともあるのです。たぶん、わたしはあなたの前から消えてしまいたかったのです」
 思い出すのは、生活の面倒をみると決め、それを告げた時の、骨と皮ばかりの少年の様子だ。
 アネビヤはまだ若く、まだ疲れてはいなかった。ただ今と同じようにいつも罪悪感を抱えていて、それを帳消しにしようと、必死だった。まだ、いま感じているような無力感は知らなかった。
 少年は、最初は信じずにとげとげしい声でアネビヤをなじった。おれをどうするつもりだ、と少年は言った。家に引き取ってもなにも話さず、すれ違うたびに、アネビヤを冷ややかな息遣いで見送るだけだった。
 だが、少年はよく学び、よく考えた。
 体が、もとの頑健さを取り戻した頃、少年はアネビヤの足元に額をこすりつけて泣いた。必ず恩に報いると約束したのはその時だった。
「約束をおぼえていますか」
 カザハヤの声は優しげだった。
「もう、仕方のないことです」
 わたしが、こうさせてしまったのだ。と、アネビヤは胸が冷えるような、無力感を感じていた。応えることができなかったからだ。いたずらに都合よく扱ったからだ。思いをあしらうのが心地よかったからだ。なにも約束などできないのに、思わせぶりな態度をとったからだ。
――わたしが狂わせたのだ。
「いいえ、違います」
 カザハヤはアネビヤの心を読んだように、穏やかな声で言った。
「これはわたしの落ち度です。そもそも、なにかを望んだのが間違いなのです」
 どちらにしても幕は引かなければならない。アネビヤは努めて感情を殺した声で言った。威厳を保てていればいいと願った。
「キザシの守り人としての任を解きます。非は追求しませんが、今後、カオライの港へは出入りを許しません。明日の間に荷物をまとめて港市を出ること、二度と戻ることはなりません。よいですか」
「異論はありません。寛大な処遇に感謝いたします」
 一礼する気配があって、カザハヤが席を立つ気配があった。もう一度、長い礼の気配があって、足音は遠ざかっていった。これでもう二度と会うことはない。
 取り残されたアネビヤのほうが罪人のようだった。
 少女の頃のように、泣きじゃくることができればよいのにと思った。けれど人目があり、護衛たちもいた。ただ表情のない顔で座り続けることしか、アネビヤには出来なかった。


 カザハヤは、人目をさけて歩いたが、心は、むしろすがすがしかった。
 少なくとも本当の意味では、アネビヤを裏切らずにすんだ。失ったものは大きいが、恥じるところはなかった。人目につかない路地を選んで、カザハヤは自分の宿舎へ急いだ。このまま最小限の荷物をまとめ、小さな漁港をたずね、カオライを出るつもりだった。連中に見咎められると面倒だった。
 最初に声を掛けられたのは、わりのいい取引の相談だった。
 やがて、それはアネビヤを裏切る不正な取引の色彩を帯び、カザハヤが関心を示さないと知ると、アネビヤ自身の命を引き換えにしての恫喝にかわった。
 さぐりを入れたが、何者かはついにわからなかった。
 カザハヤは利口な男なので、話の成り行きから連中の本当の目的を察していた。
 不正に誘うのは、ただカザハヤの弱みを握りたいだけだ。
 本当の狙いは、アネビヤの命だ。アネビヤの身辺は一見無防備に見えるが、顔も見たことがないアネビヤの夫は荒事に慣れた男で、護衛につく男たちをよく訓練していた。
 習慣的に同じ場所は通らないし、公務を執る屋敷もいくつかを無作為に選んで使用していた。護衛自身も場数をつんだ男たちで、その目配りに油断はない。いえば堅い的なのだ。
 弱みを握り、カザハヤに襲撃の手引きをさせたいのに違いない。
 アネビヤに打ち明ければどうだろうか?
 結果は同じだと、カザハヤは思った。連中も馬鹿ではない。ことが漏れたと知れば、おそらく手段を問わずにカザハヤを消しにかかるだろう。アネビヤ自身を危険にさらすことになるし、カザハヤもまだ、野良犬のように死にたくはなかった。
 港から姿を消してしまうのがいちばんいいのだ。
 長い時間を、ただアネビヤをみつめてすごした。
 身を粉にして働いたのも、独身をつらぬいたのも、アネビヤを思うがゆえだった。
 最初に目にした時の衝撃を憶えている。仇だと聞いていた。父が死んだのも自分が飢えているのも、病で目が見えなくなりかけているのも、すべてその女のせいだった。
 刺し違えてもいいと思っていた。幼いカザハヤはやせ衰えた体の下に、さびた銛の先を拾って隠していたのだ。
 そうして路上の石畳で待ち続け、現われた女は、あろうことか少女のように美しかった。
 女は目が見えず、それでも不幸のようではなく、表情にはなにか痛みのようなものを浮かべて、カザハヤの前に膝をついた。
 殺そうと思えば、できたかもしれない。だがカザハヤはそうせず、いつか必ずアネビヤの力になると約束をした。
 カザハヤは誓いを果たしたのだ。そのことは目がくらむような陶酔をカザハヤにもたらした。
 我に返って見ると、目の前の細い辻から二人の乞食が現われるのが見えた。
 一瞬、幼い日の自分の姿を幻視したようでぎょっとしたカザハヤだが、すぐにそんなわけはないと思い直して、乞食の様子を観察した。
 乞食にしては身のこなしの鋭い男たちだった。
 乞食の手の中にある鳥の鉤爪の形をした白刃が、真っ黒な影を落とす、強い日差しを浴びて光った。

      続く

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