カザハヤとかいう男の後をつけ餞別をわたすよう、クナリは指示されていた。
アネビヤの指図だ。渡すのは当座の生活費――当座というにはずいぶん大きな金額だが――と、スガルバヤの遠い離れにある、マセラの港へ当てた紹介状だ。小さな港だが、いまからの商いが期待できる港だ。地理的、政治的な条件はすこぶるいい。アネビヤの配慮だった。
――ずいぶんなお気に入りだったのだなぁ。
と、クナリはやや苦い気分で思う。聞けば、その付き合いはクナリとの結婚生活よりも長い。
ま、知らぬ顔も見苦しいし、挨拶くらいはしとくか。
グナワンをおいてきてよかった。邪険な口でもきいてしまったら、器量の小さな男と、一生笑いものだ。ああ見えて、あいつはけっこう陰湿なところがある。
カザハヤは水路沿いの人気のない路地を抜けて、石壁の陰をなぞるようにして歩いた。まるで人目を避けているように見えた。
その様子は少しおかしかった。まるで、あれは逃亡者の足取りだ。
もう、隠れる必要などないのに、なぜだ?
声をかけて引きとめようとした時、路地の角から現われた二つの人影が、前と後ろからカザハヤを押し包んだ。
――しまった!
駆け出そうとしたが、すでにカザハヤは刺客の足元に崩れ折れていた。
刺客は、この地方の賊がみなするように、色の沈んだ衣服をまとい、顔には土で汚した布を巻いていた。街中にごろごろしている乞食に見えるよう、わざとぼろを着込んでいるのだ。怪しまれずに近寄れるし、人ごみに紛れて身を隠すのも容易だ。手にしているのは鳥の鉤爪の形をした短いナイフだった。人体の構造を熟知にした者には、その貧弱な得物で十分なのだ。
駆け寄ってくるクナリに気づき、二人の刺客は身をひるがえした。クナリとの闘争は料金に含まれていないのだろう。追うのは無意味だとクナリは判断した。どうせなにも知らない。金で雇われたならず者に違いなかった。
助け起こすと、カザハヤは胸から血を流していた。正確に臓器だけを破壊したのだ。もう長くは持たなかった。
「……あなたは」
消えてしまいそうな声で、カザハヤは言った。
「アネビヤの頼みで、後をつけていた。ここに旅賃とマセラの港への紹介状がある。アネビヤはあんたを気にかけていた」
「……夫君ですか」
「しゃべるな。血を失う」
「いいえ、聞いてください。アネビヤさまの身があぶないのです」
この男には事情があったのだ。アネビヤには話せないなにかだ。
「アネビヤさまの身辺をさぐるよう、高額の報酬で頼まれました。もう二年も前のことです。断り続けましたが……もう限界でした」
そういう連中の手口は、クナリも良く知っている。
そういう生業の連中は、協力者を募ったりはしない、協力者を仕立てる。金か女か、それとも他の罪か、執拗に外堀を埋めて、必ず言うことを聞かせる。
「それで距離を置こうとしたのか」
この男は、アネビヤを裏切って、アネビヤを救おうとしたのだ。
「アネビヤに相談してくれれば……」
ごろつきの相手は、クナリの日常の一つだ。こんなことになる前にアネビヤに打ち明けてくれれば――。
「わたしにも人に知られたくない暗闇はあるのです」
カザハヤという男は、クナリの胸元をつかみ、すがるように言った。
「どうか、アネビヤさまを」
目から光が消えようとしていた。
「わかっている。大丈夫だ。ちゃんとおっかないのがそばについている。心配ない」
安心したように、男は息を吐いた。それきり瞳が動かなくなった。
クナリは男を石畳の上に横たえた。
この男は、アネビヤを大事にしてくれた。手厚く扱ってやらなければいけない。たとえ一時、アネビヤの心を奪った男だとしても。
クナリはカザハヤの目を閉じてやった。そして精霊に旅立ちの加護を祈った。
グナワンは、天蓋の下でただ座っているアネビヤを、後ろから見守っていた。かける言葉はない。この強い女性は自分の面倒もみれない若造の助けなど望まないだろう。ただ心を落ち着ける時間が欲しいのだ。
こういう時に、グナワンは故郷に置いてきた婚約者の顔を思い出す、婚約者、クスハの顔はきまってべそをかきそうになっている。裏切り者、とはクスハはいわないだろう。あたしは大丈夫だから、と涙をこらえながら言うはずだ。
――グナワンのしたいようにすればいいんだよ。
それは、ただの妄想だ。
そもそも、こういう妄想が見当はずれなのだ。だいたいは身分が違うし、年も親子ほどに離れている。なにより師匠の妻で、しかも二人は中むつまじいと言っていいほど、うまくやっているのだ。
とうに昼食に時間は過ぎ、他の店は天蓋を畳みはじめている。この店の主人も落ち着かない様子で、時々アネビヤに視線を送っていた。人通りが少なくなった港の石積みは、たくさんの島が浮ぶ海にむかってまっすぐに伸びていて、強い日差しを浴びて、揺れる空気に波打っていた。
最初に気付いたのは、三人の護衛たちだった。
「ガドゥンガンだ」
「虎憑きだ」
護衛たちはざわめいた。屋台の店主たちが悲鳴をあげながら逃げていった。
かげろうの中にゆらりと立った姿は、すでに胸が人間の背の丈を越えたところにある巨躯だった。
ゆらめく熱気の中を歩いてきた影は、やがて人でも獣でもない生き物の姿をとった。全身には虎のような斑紋があり、長い犬歯は唇を破っていた。熱に侵されたような相貌に知性は感じられない。手足はこん棒のように節くれだっていて、実際に同じ機能を果たした。長い爪は肉食獣と同じ、肉をさく道具の形をしていた。
森を迷った女が、みごもって戻ってくることがある。
産み落とされた子は、特別な力をもつことがあり、精霊と人間のあいの子だと言われる。善良な精霊がいれば悪霊もいて、ガドゥンガンは後者の子だ。
知性は低く、わけもわからぬ闘争本能だけがあり、犬と同じように訓練することができる。
つまり、においで獲物を教えることができる。
ガドゥンガンは獲物を殺戮し、その体を食らう。腹を満たすまで放ったものでさえ止めることはできない。
高価な刺客だ。
報酬に値する獲物は、この場には一人しかいなかった。
「アネビヤさまをここからお連れしてください」
「グナワンさま! 相手が悪すぎます! ここは引いてください」
護衛の一人が言った。
「わかっています。アネビヤさまを早く。気をつけて。これ自体が陽動の可能性もあります」
「人間の太刀打ちできる相手ではありません! グナワンさま!」
「大丈夫。まともにやりあうつもりはありません」
グナワンは、にっと唇のはしをもち上げた。
「いい加減にしろよ、この若造! こっちは二十年荒事で飯を食ってんだ。無理だっていってるだろうが!」
護衛は痺れをきらして、怒鳴り声をあげた。
護衛に抱え上げられたアネビヤが、心配げに言った。
「グナワン! よしなさい!」
「逃げ切れないですよ。駆ける速さも獣なみなんだから。師匠ならやるでしょ……生き物だ。手を触れられない精霊じゃないんだから」
「グナワン! わたしのいうことが聞けないのですか!」
「はやく連れて行ってください。なにかあったら師匠に怒られるのはぼくですからね」
舌打ちをして、護衛はアネビヤを連れて行った。ケモノは首をめぐらせて、獲物の臭いを探していた。
「こっちだ」
グナワンは、ケモノを手招きした。
「おれが相手してやるよ」
グナワンはもともと、まずしい漁村の海賊あがりだった。ですとか、ますとか、ほんとうはがらじゃない。それはアネビヤの前でだけ身に着ける仮面だ。
ケモノは、グナワンのにおいをかいで、長い雄たけびをあげた。脅威と判断したのだ。
「いいぜ。人外とやるのははじめてだ。がっかりさせるなよ」
グナワンは、うれしそうに言った。
丸太のような腕が振り下ろされて、石畳が砕けた。爆発したように土煙があがった。虎人の素手での一撃は、鉄塊を力いっぱい振り回しての一撃に相当する。グナワンの体は折れたと思われたが、煙の向こうにはすべるようにかわしたグナワンが、自然な姿で立ち、ケモノを観察していた。
ケモノは怒りの咆哮を上げ、長い腕をふるった。
アネビヤの乗っていた牛車を引く牛が一撃を受け、糸が切れたように地面に倒れた。牛の太い首が奇妙な角度に捻じ曲がっていた。
グナワンは動揺することなく、アネビヤが連れて行かれるのを、目の端で眺めていた。
抱え上げられた尻が、運ばれて倉庫の立ち並ぶ奥に消えるのを見届けると、グナワンは安心したように、ケモノに向き直った。
――さて、どうしたものかな。
ケモノは精霊の加護をうけており、その体力は人間とは比べ物にならない、眠りも食事もとらず、何日でも獲物を追い続ける、だから高価な刺客として商品となるのだ。かわし続けても、いずれ力尽きるのはグナワンのほうだろう。
ケモノは長い犬歯から、よだれを撒き散らしていた。斑紋の浮かぶ顔は空腹で歪んでいる。
グナワンは、このケモノにとって食物だった。
――なるほど、なら、食わせてやろうか。
グナワンは、長い腕から繰り出される一撃をくぐり、ケモノの鼻先に腕をさしだした。
ケモノは牙を噛み鳴らした。
分かっていたことだが、激しい痛みがグナワンを襲った。
グナワンは、アネビヤを守るために虎人と闘うつもりのようだった。
アネビヤには止めることできなかった。港の全てを管理し、カオライの富の流れを支配しても、一人の若者にいうことを聞かせることができない。力とはそういうものだ。強い力を持てば持つほど、一方では無力なのだ。
龍女の物語を思い出した。
竜王の娘はたいへん美しく、どのような相手も服従させる言霊を持っていた。
どんな男も思いのままだったが、ある日、どの男も本当は言霊の力に操られただけで、ほんとうは誰一人自分を愛している者はいないのではないかと不安を覚えた。
たずねても男たちは、心からあなたを愛していますと応えるばかりだった。
龍女は、本当のことを話すように言霊をかけた。
男たちは愛していると返事した。龍女は当たり前のことだと思った。男たちは今では心からそう信じているのだから。
疑いは大きくなって、龍女は男たちを遠ざけた。
その後に集めた男たちは、だれひとり龍女にすりよってはこなかった。龍女は男たちにたずねた。
――おまえたちはわたしを愛してはいないのだろうね。
男の一人が答えた。
――もし愛していると言えば、あなたはわたし達を打ち捨ててしまうのでしょう。
龍女は男たちに愛されていると理解したが、だれも触れるものはおらず、永久に孤独が約束されたことを龍女は知った。
それから龍女は欲望に溺れるのをやめ、徳を積んで人を助けた。尊敬は得たが、いずれ疲れて岩屋にこもるまで、生涯にわたってひとりだった。
力があっても、どうにもならないことがあるのだ。
虎人の咆哮が届いた。
「食われたぞ! 無茶な奴だ。人間がかなうものか!」
と、遠くで野次馬が叫んだ。
アネビヤは耳をふさいだ。
わたしのせいではない、とアネビヤは子供のように思った。わたしの望んだことではない。わたしが命を狙われるのなら、わたしが死ねばよいのだ。
ほんとうのことを教えて。
と、たぶん龍女は言ったはずだ。
わたしは最低の女なの? それとも殿方に愛されてもかまわない普通の女なの?
そう言いながら、龍女は泣いていたかも知れない。
続く