異常者をひとり配置する。
その異常者が三人の人間の心に、破滅的な傷を負わせたとする。
社会生活が困難になるかもしれない。生活保護が必要だし、カウンセラーも必要だ。これが社会的コスト。
問題は伝染することだ。心の傷は、心の傷を生む。虐待を行う母親に育てられた娘は、やはり自分の娘に虐待を行うことが多いように。
一人の異常者が三人の異常者を生み、三人の異常者は九人の異常者を生む。悪意の連鎖は放置すれば地球上を埋め尽くす。これも社会的コスト。
警察中枢にいる何人かの誰かが、コスト意識を持っていた。
徒労だ。無駄なことだ。源流を絶てばいいいのだ。最小コストではないか。明日、九人の犠牲者を出す前に、今日、一人を殺害すればよいのだ。それが経済効果だ。反論の余地がない合理的な思考。厳格な結論。
これが、「こだま計画」だ。最小コストのための殺人。
バスローブを羽織っただけの、西宮はるかは、丸見えなのもかまわずにあぐらをかき、ベッドの上でノート端末を操作していた。
ときどきいらいらと頭をかいて、落ち着かない様子だ。
たぶん、離脱症状だ。
ネット依存とか携帯依存とか、自分の評価を確認しないではいられない病気を、今ではひとくくりにして関係性依存(リレトホリック)と呼んでいる。脳の快楽物質が関係しているので、ちゃんと中毒性があり、離脱時の苦痛がある。
西宮はるかは、いま、自分のブログへのコメントに返事をしたくてうずうずしている。信奉者とのやりとりは快楽物質を生み出すのだ。
「駄目だよ。追跡される」
「わかってるわよ!」
西宮はるかは、ソファに座っているぼくに、ワインの空き瓶を投げてきた。緑色の遮光性のガラスは壁にあたって砕け散る。誰だ、こいつのことを人格者って言ったのは。
フォロワー達は、パニックになっていた。
自分たちが、女神、天使、聖人といった感じで崇めていたアイドルが――まあ、ずいぶん年のいったアイドルだが。それによく知るとちょっと柄が悪い――突然、姿を消し、警察に手配されている。たしかに思ってもいなかったことに違いないだろう。
――彼女は犯罪に加担したりしない。これは何かの間違いだ。
――これは陰謀で、彼女は嵌められたのだ。
あながち見当はずれでもないけれど。でも、この連中は西宮はるかのなにを知っているというのだろう? いつも部屋では裸だということを知っているのだろうか? 酒が入るとHになることは? いったい彼女のどの部分を知っている?
連中にフォローされているのはカウンセラーとしての西宮はるかで、人間としての彼女は放置されている。
だって、行きずりの男とセックスするくらいだ。あまり大事にされているようには見えない。
「脳のスキャンてどうやるの?」
「体験創生技術って聞いた事ない?」
「……知らないね」
「基本技術は、あなたの体にもに使っているでしょ。ナノマシン化した電位送起受容体で神経電位をコントロールする。あなたの体を動かしている仕組みよ」
それなら分かる。よく知られた技術で、ぼくらは逮捕者の体を制御するのにも使う。多針注射筒で脊髄に注入し、動きを止めたり、意思に反して歩かせたりするのだ。目標体制御システム。即席で構成するので、あまりデリケートな操作は出来ないけど、歩かせたり座らせたりするぐらいの事はできる。侵襲型の技術なので、今は安全性が問題になっている。
「あなたも脳の一部に使用しているはずだけど。スキャン中のわたしは、あなたが使用している物より数段精度の高いナノマシンを、脳の全体に使用したわ。コピー脳を用意して、質問を受けて想起されるわたしの脳電位をコピー脳に再現し続ける。子供の頃の思い出、哲学、知識、信念。延々何か月も繰り返すのよ。やがてコピー脳は、デフォルメされたわたしになる」
あまりぞっとしない話だ。劣化コピーとはいえ、そのコピーには彼女と同じ魂が宿っている。
そのコピーは消去されるときに、やはり絶望を感じるのだろうか?
それとも、自分をコピーだと認識する?
「こだまは自分を君のコピーだと理解しているのかな?」
「それはないわ。こだまシステムは専門知識だけを抽出した二次コピーだもの。あくまで疑似人格よ」
「じゃあ、日本のどこかに君の一次コピーがある訳だ」
「たぶん、科学警察研究所の敷地のどこかに。いやなこと言うわね。あたしのコピーは閉じ込められていると思っているのかしら?」
西宮はるかは、ノート端末を畳んで、ぼくの方を向いた。あぐらをかいているので、組んだ足の向こうに、かげりが見え隠れしている。
こういってはなんだけど、ちょっとどぎまぎする。なにしろ彼女は人が振り返るような美人なのだ。がさつだけど。
彼女は微笑んだ。この微笑みは職業的なものか、本能的なものか判別できない。えくぼがチャーミングなのは間違いない。
はるかは指を立てて、くいくいっと動かした。ベルボーイを呼ぶときにやるあれだ。
「こっちへいらっしゃい」
「あー、またストレス?」
「ストレスよ、おかしくなりそう」
ぼくは立ち上がり、西宮はるかのそばに座った。
ふぅ、と息をつく間もなく押し倒されて、白いペンキがムラになった天井が見えた。ピンナップみたいに適当に張り付けられたELが、扁平な光を落としている。
西宮はるかは、馬乗りになってぼくの胸に唇を這わせた。なんだか捕食されてるみたいだ。
「知ってる? 惣領かえではあなたのことが好きだった。わたし、彼女を裏切っているわね」
もし、それで興奮しているのなら、かなり倒錯している。誰だ、彼女を人格者って言ったのは。
あたしは不幸を望んだりしないよ、と惣領かえでは言った。
じゃあ、惣領かえでにも、こんなふうにしてあげた方が良かったのかな? 神経代替手術を受けたもの同士のSEXって変な感じだ。代理SEXみたいな感じ。ほんとうか嘘かわからない。
――ねぇ、この快感て、本物だと思う?
でも、仮に視覚しかなかったとしても、愛情確認できるのなら、行為はするかもしれないね。
とりあえず、西宮はるかの快感は本物みたいだ。声が大きいから分かる。それはそれでよかったと思う。
ベッドの上で眠っている寝顔は、邪気がなくて少女みたいだ。安心して眠る様子が無防備なので、愛おしく感じるようにぼくらは出来ているのかもしれない。自分の遺伝子を受容しているかも知れない女性を守ろうとする、遺伝子の利己的な指令。
よく眠っているので、起こさないようにベッドを抜け出した。
歯を磨いてから、衣服をつける。迷ったけれど、ボディアーマーは着用しないことにした。ちょっと目立ちすぎる。
ポリマーフレームの拳銃を点検して――薬室には装填しない。ぼくは軍人じゃないので、状況が迫ってきても初段を装填するくらいの時間はある。マガジンスプリングのはり、スライドの動作。汚れ具合――腰のプラスティックホルスターに滑り込ませる。予備の弾倉はホルスターとアセンブリになったポーチに二本入っている。念のため予備マガジンの装弾も確認する。残りのマガジンは点検しながらショルダーバッグのポケットに納めてゆく。
偽体の装備していた個人防御火器(PDW)を、点検しつつショルダーバッグに入れる。こいつはちゃんと初弾を装填して、安全装置をかけた。この銃はお気に入りだ。使い慣れているし、ここには弾倉がふんだんにある。弾薬は固体潤滑コーティングつきの貫通弾を選んだ。脱皮をするようにボディアーマーを抜けるエグイ弾頭で偽体向きの弾薬だ。想定される交戦距離では十分に有効だろうと思う。予備マガジンも入るだけバッグに入れた。
偽体には役に立たないけど、シースナイフと外傷救急キットのポーチは、拳銃と反対側の腰に取り付けた。折り畳みナイフとチタニウム合金製のフラッシュライトはポケットにしまった。PDWに取り付けても、偽体を相手じゃ目潰しはきかない。防刃グローブはお尻のポケットに。このへんで諦めないと、人に怪しまれるような重装備になってしまう。
底に鉄板が入ったくるぶしまでのブーツは、有名スポーツブランドでデザインされたもので、ファッション性も高いのでお気に入りの装備のひとつだ。
副現実装置は対破片ゴーグルを選んだ。交戦の可能性は高い。ゴーグルは現代的なデザインで、スポーツグラスと見分けがつかない。コンタクトは保存液の満たされた容器にしまう。
たとえば、ぼくが自殺する時はどんな手段を使うだろう?
簡単に死なせては駄目だ。ぼくは自分の事が大嫌いなので、なるべく苦痛が大きくなるように殺さなければいけない。
首を吊るのはもっとも経済的な方法だが、もっとも苦しみのない死に方でもある。
銃で頭を吹き飛ばすのは、実際に銃を所有しているぼくには身近な方法だが、これも苦痛を与えるのは十分じゃない。
電気を使ったらどうだろう。右手と左足に電極を結ぶ。心臓をさけて流れる電流が内臓を焦がしてゆく、筋肉が収縮し、骨が折れて突き出すかもしれない。これはなかなか魅力的な方法だ。
けれど、落とし穴がある。ぼくは神経代替手術を受けているので、最初の電撃でナノマシンは機能を喪失し、じつは痛くも痒くないという不自然な現象に出くわすことになる。自分の体が破壊されてゆくのを眺めるのは、それはそれで恐怖を感じる体験には違いないだろうが、苦痛という点ではもう一つ説得力にかける。
そこでぼくは思いついた。
偽体を使ったらどうだろう。偽体の制御部分は脳にある。体中を切り刻んでばらばらにしても、最後の瞬間まで、ぼくは偽体を操作し続けることが出来る。これは完ぺきな方法だ。ぼくにとっても、惣領かえでにとっても。
自殺には職業が現れるという。電気技師は電気を使って死のうとするし、工学技士はからくりをつくって死のうとする。
ぼくたちであれば、偽体を使用するのは正常な判断だ。
でも、惣領かえでは偽体を使わなかった。
両手がふさがっているので、床に置いたナイフをつかうなんて、ぼくたち拡張能力者には不合理な方法だ。
惣領かえでは異常者ではなかったと、西宮はるかは言った。
それはこんなふうに解釈することもできる。惣領かえでは自殺したのではない。殺されたのだ。
手が震えていた。「闘争か逃走か 」のホルモン、アドレナリンの作用。
アドレナリンは、敵から身を守る、あるいは獲物を捕食する時に必要なストレス応答を全身に引き出す。
ぼくは冷静だろうか? 残念だけど冷静だ。黒い水面のような冷えた怒りがあるだけだ。
いくつか確認したいことがある。
ぼくは、テーブルの上に部屋を出るなと書いたメモと携帯メモリを置いた。もしぼくが帰らなかったら、しばらく閉じこもってから、隙を脱出するようにとも書いてある。方法はファイルにまとめて携帯メモリに入れてある。じつは、海外に逃亡するシミュレーションも行っているのだ。
ぼくは偏執狂なので、自分に執着がなくても、こういう検討を重ねずにはいられない。
ゲームに飢えているのかもしれない。
西宮はるかは、まだ少女のような横顔で寝息を立てていた。守り切れるかな、と思う。べつに愛情はないけれど、恋人がするように、西宮はるかのおでこにキスをして、ぼくは隠れ家をでた。
続く