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【APOPTOSIS】(7/12)R15注意

耳のあたりの皮膚感覚が異常を知らせる―

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 耳のあたりの皮膚感覚が異常を知らせる、息がかかっているのだ。甘い体臭、かすかな熱気。風呂上がりの西宮はるかが、ベージュのバスローブのままでぼくの肩口を覗き込んでいる。ぼくの首筋に、濡れた髪からのしずくが落ちた。
 西宮はるかの吐息はアルコールの匂いがした。酔っている。ぼくが隠していたワインの瓶を見つけたのだ。フルーティで飲みやすいナパバレー産。高い物じゃないけど、いまの日本では貴重だ。風呂上がりのミネラルウォーターみたいに飲まれるのは、なんだか残念だ。
「みたの? 惣領かえでの記録」
「ごらんの通り。ぼくは彼女に、優しい家庭に育ったんだろうなって言った。見当違いなことを言ったね。怒ってたわけだ」
「かえでちゃんは負けなかった。あなたのような意気地なしとは違うわ。ちゃんと世界と向き合って、幸せになろうとしていたでしょう」
 できれば世界の力になりたいと思ってる、と惣領かえでは言った。あたしは不幸を望んだりしないよ、とも。
 西宮はるかは、記憶を呼び起こすように、口をとがらせて指先で触れた。
「たとえば反社会性パーソナリティ障害と診断できる人物の比率は、欧米では二十五人に一人と言われているの。日本ではそれよりも少なくて二百人か三百人に一人とか言われているわ」
 反社会性パーソナリティ障害、世間ではサイコパスとも言われる。
 他者に共感することができず、良心に乏しい、反社会的な人物。良心に欠け冷淡で、罪悪感を知らない人達。
 そういう人間が、正気の仮面をつけて、善良な市民に混じっている。
 サイコパスの誰もが犯罪に手をそめるわけじゃない。反社会性は後天的な要素だ。たとえば診断テストで簡単に類型してしまうのは、ぼくにはあまり、よいことではないように思える。
「でも、この数字はわたしは嘘だって思っているの。だって自然現象よ? 民族の違いでそこまでの差が出るなんて科学的じゃない。わたしの推測はこう。日本のサイコパスは欧米と同じ数だけいる。ただ、これまでの日本の社会は緊密過ぎて、病質の発現をゆるさなかっただけよ」
「気が滅入るね。あなたの隣人は殺人者。ただ、殺せる機会に恵まれていないだけ。でも、誰だってそうだろ。例えば盗みが可能で露見しない環境を作れば、何割かの人間は盗みをはたらく。精神病質かどうかとは関係ない現象だ」
「わたしは、惣領かえでになにが起こったのかを説明しているだけよ。幼い彼女は、運が悪いことに二百人に一人の可能性に行き当たった。選択の余地なんかない。自分の親だもの。たとえ異常者でも、子供はすがるしかないの。だれもなにもしてあげられない。壊し屋が、わがもの顔で、子供の心を壊しているのに、だれもそれには気づかない」
 ぼくは椅子を回して、西宮はるかと向き合った。
 西宮はるかは、バスローブの前を広げた。その下は下着も身に着けていない。彼女は椅子に座ったぼくに馬乗りになった。柔らかいふくらみが、鼻の前にある。ほんとうに酔っているようだ。なんだか馬鹿にされてるみたいで愉快じゃない。
 酒臭い顔をよせて、西宮はるかは耳元でささやく。
「でも、ほんとうになにもできない? できることがあるんじゃないかしら?」
「もう、寝たら。あんた酔ってるよ。あとできっと、自己嫌悪におそわれる」
 西宮はるかは、ボトルを持った手でぼくの顔をはさみ、自分のほうへ向けた。ガラスの感触が、ひんやりとほほを撫でる。
「ちゃんと聞いて。あたしはその可能性を研究したのよ。たとえば生物の体は、コントロールされた細胞の自壊で、機能を保つようになっているわ。エラーを起こした細胞は、タンパク質でできたシグナルを受けて自壊を決意する。オタマジャクシがカエルに変態する時に尻尾がなくなるのは自壊作用の働き。体の複雑な器官がかたちを保つのも――」
 西宮はるかは、ぼくの前に指をかざして、ひらひらと動かした。
「――この指も自壊作用の結果。細胞の自殺があたしたちの体をコントロールしている」
 アポトーシス。プログラムされた細胞死。細胞の自殺。
「アポトーシスは人間社会に普通に存在しているのよ。頭のおかしい指揮官は前線で背中から部下に撃たれる。エスキモーはクンランゲタと呼ばれる異常行動者を氷の割れ目に突き落としたわ。文明社会でも、終身刑や死刑は行われている。わたしたちの社会は『反社会性』というがん細胞を取り除くように出来ている。わたしがしていたのは、そういう研究」
 西宮はるかが研究していたのは、人間の社会を人体に見立てた、アポートーシスだ。
 西宮はるかは、ぼくにぴったりと体を押し付けた。まるで、不安を紛らわせるように。
「まさか、あたしの研究に経済効果を見いだす連中がいるなんて思わなかった」
「連中? どういうこと? あんたがしていることではないのかい?」
「【APOPTOSIS PROGRAM】の通称は「こだま計画」。あなたもカウンセリングを受けたことがあるでしょう?」
 こだまちゃんのこと? 警察庁のカウンセリングAIが人を殺しているっていうのか?
 そう言えば捜査資料によると、西宮はるかは科学警察研究所の研究に協力している。「潜在犯、被害者の心的ストレスケアに関する研究」
「真相を知っているのはごくわずかな人間だけよ。「こだま」の生体脳はわたしの脳をスキャンして出来ているの。わたしの分身が、がんを排除している。無差別に、容赦なく、経済的に」
「そんなこと、ほんとうにできるのかい?」
「簡単よ。ひとつずつ着せていくの。社会性っていう名の容赦ない鎖でしばってゆく。ほんとうのあなたは悪い人じゃない。あなたがそんなことをする筈がない。それはほんとうのあなたじゃない。みんなあなたを信じているのよ。あなたにそんなひどいことができるはずがない。がんじがらめになって、心は少しずつ壊れてゆく。さいごに耳元でささやけばいいのよ……もう、楽になってもいいのよって」
 西宮はるかはぼくの耳にささやいた。
「だれでも、はだかの自分の姿なんか見たくないのよ。たとえ、異常者でも」
 たぶん、西宮はるかも壊れ始めている。放逸な性行動は心が壊れ始めるシグナルの一つだ。
「わたしは、助けようとしたの。助けられると思っていた」
 それがたぶん、彼女のクライエントの自殺率が高い理由だ。西宮はるかは「こだま計画」の標的になりそうな人物を見つけだし、カウンセリングで助けようとしていたのだ。
 ぼくはレミングの群れを止めようとする少女をイメージする。その子はがけっぷちで、腕をいっぱいに広げているのだけれど。次々とやってくる小さな哺乳動物は、さけんでいる少女の気持ちなんかは知らん顔で、足をすり抜け、海に身を投げてゆく。
 レミングには表情なんてなくて、少女は涙を流しながら叫んでいる。
――どうしてよ! どうしてとまってくれないのよ!
「ひとつだけ教えてよ」
「教えたら抱いてくれる? 頭がおかしくなりそうなの」
「惣領かえでは異常者だったのかい?」
 西宮はるかは動きを止めた。子供がするように、ぼくの首にまわした手に力をこめる。首筋に濡れた感触がある。たぶん、彼女は泣いているのだ。かすれた声が言った。
「いいえ。惣領かえでは、その生い立ちにも関わらず、完全にまともな人間だったわ」
 

 その昔、反社会的犯罪性向者にブレーキをかけていたのは、明日のパンだった。
 人間はもともと狂っている。どうしようもないくらいに。生殖の必要がないのにSEXするし、腹が減っていないのに殺す。
 まだ、おこっていない未来を予測して狩りをする。自然界では未来を予測するのは遺伝子に刻まれた習性だけだ。
 獣性なんて言ったら動物には失礼だけど、人間がケダモノという言葉で連想する狂気は、だれの心にも存在している。
 異常者でも、明日の生活を確保しないといけない。
 手当たり次第に女の人を犯したり、盗んだり、人を殺したりしたら、給金を手に入れることができない。社会的に無視された人間は、飢え死にするしかなくなる。これがモラルと呼ばれる概念の、正体のうちの半分だ。 
 日本人は、どの民族よりも早く楽園に辿り着き、経済的制約というブレーキを失ってしまった。
 モラルのうち、もう半分の正体は、視線という名の牢獄だ。
 誰もが尊敬されたい。誰もが共感されたい。
 ケダモノのようなことをしたら、尊敬を得ることはできない。
――わたしは、正しいことをしています。
――わたしはみんなの為にがんばっています。
――だから、きらいにならないで。
 モラルっていう概念自体が、もう、まるっきり狂ってるみたいだ。
 人がかかえる視線の量は、フォロワーという単位で計ることができる。いま、日本人をしばる視線の数は爆発的に増大している。昔は何百人で数えきれた視線が、今は何万の単位となって、人間を見守っている。
 視線が、人間にもともと備わっているケダモノ的な欲求を、否定する。
――そんな人だとは思わなかった。
 日本人はそんな言葉を怖れる。このブレーキは、経済的制約よりもはるかに強力だ。日本人は経済的制約という鎖から自由になって、関係性依存という強力な鎖にとらわれた。
 強力すぎて、モラルと自分の姿のはざまで、心が少しずつ壊れてゆく。
 実のところ、サイコパスかどうかというのは本質ではないと、ぼくは思っている。だいたいサイコパスはあまり思い悩まない。
 人を殺すかどうかは、簡単なテストで判定できるような物じゃない。
 でも、人を殺し、傷つける人間を探り当てる手法を、西宮はるかは知っている。

      続く

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