住宅街には夕餉のにおいが漂っている。人通りが少なくなる時刻だ。日本人の夕食は早くなったので、もうみんな食事を終えてくつろいでいる時刻だ。
星の降ってきそうな夜空だった。日本の夜空は年々美しくなる。
高効率、低消費社会。
惣領かえでの自宅は、もう綺麗に掃除されていた。副現実には入居者募集の看板が出ている。不動産屋の連絡先と、おすすめの言葉。清掃済、格安物件。急な空室によりお求め安くなっております。単身女性におすすめ。一瞬、付近住人のレビュー欄に、急な自殺で驚きました、と書き込みそうになった。大人げない真似だけど。でも、ぼくだって感傷的になることはある。
オーナーは荷物をどのように処分したのだろうか?
業者が処分したのだとしたら、ちょっと切ない。
ぼくの目的は、もよりの偽体保管ポッドだ。ここから一キロ少しの距離。
歩いてもいくのもいい。たくさん考えることが出来る。
惣領かえでのことも思い出すことが出来る。
惣領かえではジムトレーニングマニアだった。
細い体からは信じられない筋力を発揮する。運動負荷はたぶん、ぼくよりもきつく設定されていた。
ベンチマシンを使い変な唸り声をあげている惣領かえでの横で、ぼくはエアロバイクを漕いでいた。彼女はぼくにも病的な運動を要求する。
場所はラボにあるガラスブースの一つ、オペレーター用のジムルームだった。
――体動かすとすっきりするでしょ、先輩。
それは彼女の一方的な見解だ。
――からだでっかちだ。そのうち馬鹿になるよ?
――そんなわけないよ。
ふんっと彼女は短く息を吐いた。鼻の穴が少し膨らんでいる。ぼくは笑う。
惣領かえでは、むくれてぼくを睨む。
――なにがおかしいのよ
――だって、まんがみたいじゃないか。ふんって言ったよ。
笑うぼくを見て、惣領かえでは目を和らげる。
――よかった。わらったね。
この偽体は、下水ポンプの制御盤と並べて設置されていた。
惣領かえでが借りていた家から一番近い保管所だ。
白い金属ネットで囲われた、箱庭みたいな空間だった。周囲は半透明なパネルで出来た二階建ての生鮮野菜の工場なので、人の目はない。パネルは疑似太陽照明を透かして光っている。まるでお祭りの神社に立っている感じ。現実感が薄くて、足元がふわふわする。
制御盤はベージュに塗装された金属箱で、正面は扉になっている。扉には点検窓があって、内部に電気関係の計器が見えていた。地下にあるポンプを間欠制御する装置だ。
背中合わせにやはりベージュの箱があるが、それは偽装で、中身はチタニウム合金の金属殻だ。
いきなりポッドを引き出したら、警報がラボで響き渡る。電気的に偽装しながら作業しないといけないので、ちょっと面倒だ。ただこちらは現物に有線できるので、その意味ではやり易い。だいたいこちらは、この装置を操作する訓練を受けているのだ。オペレーターは、ラボの支援が受けられないからといって作戦を諦めたりはしない。ちゃんとその時の対応も学んでいる。
コネクタのゴムカバーを外し、用意してきたケーブルを差す。普通の携帯端末と同じ、汎用の規格だ。接続しメンテ端末を装って操作する。認証は申し訳ないが、片岡洋二警視正のものを使わせてもらった。備えあれば憂いなしだ。通信を特製プログラムを経由するように設定し、このポッドは発信しないし、問い合わせを受けても、必ず待機中異常なしの信号を返す。もう、どんな操作をしてもいい。
信号を送って、偽装扉を開く。中身はがらんどうで、銀色の鞘が奥に光っていた。警告マークが正面に張られている。『可動機械装置。足元のに指示の範囲へ立たないこと』ぼくは開いた扉からキーボード型の有線操作装置を取り、足元の、黄色と黒の縞模様でマーキングした範囲からさがる。
操作はキーボードを使ったコマンド入力だ。誰でもが推測で操作する事は出来ないように設計されている。
コマンドはアルファベットの省略記号で表現する。日本語で表現するとこんな感じ。
「ポッド解放位置」ポッドが斜めに地上に突き出す。
「ポッド解放」金属製のカプセルのような殻が二つに割れる。
「メンテナンスモード」これは、二つに割れたポッドのふたの方を、離脱に必要な角度よりも大きく開く操作だ。
「外部入力受付」これで、偽体を直接端末で操作できるようになる。
偽体は突き出したポッドの中で、前のめりに立っている。倒れていないのは拘束されているからだ。
こうして見ると、いつも感じているより人間に近い姿をしている。要所要所にアーマープレートを入れたカバーは最新のボディアーマーのようだし、マニュピレータは中指と薬指を欠いた人の手のようだ。頭部だけが、複数のカメラ、複眼で覆われ、人間というより蜘蛛のような印象を与えている。
ぼくは偽体にケーブルをつないで有線した。端末ではなく、首筋にある自分のコネクタを使う。ぼくは偽体の論理構造を扱うのは慣れているのだ。
確認したいことがあった。
偽体の稼動履歴(ログ)。これは消去されていた。偽体のログはすべてラボに残るので、わざわざ消去する必要はないけれど、消してしまうのが違法という訳ではない。実際に他のオペレーターに自分のスキルを確認されたくなくて、稼働のたびにログを消去するオペレーターもいる。
これはなにかの証拠にはならない。
ぼくは次に、「目標体制御システム」――逮捕者の体を意思に反して操作するための装備――を確認した。標準で装備している「多針注射筒」の数は四つ。肩甲骨の下にある収納スペースに収められている。
おかしい。ひとつ消費されている。
通常の対応だと、消費された装備は、報告に基づいて補充される。
足りないということは、報告が行われなかったということだ。違法に偽体を使用したのであれば、もちろん、報告が行われる筈がない。
認めたくなかった可能性がせまってくる。ぼくは冷や汗をかいている。
考え過ぎであって欲しいと思う。
そんなことは人間にできることじゃない。
次に確認したのは、ハミングバードの活動履歴(ログ)だ。
実は多くのオペレーターはカワセミに映像や動作のログが残ることを知らない。ログを確認する為には、メニューの奥の奥、ずっと深くの方を探らなくてはいけない。偏執狂気味じゃないと発見できないのだ。
通常、ハミングバードは一番から使用される。
ぼくは、メニューの奥を探り、カワセミの視覚を、拡張視野に再生する。
ぼくは、カントリー風の清潔なキッチンを見下ろしていた。
カワセミの視覚だ。
真ん中に白いタイルを貼った、オイル仕上げのダイニングテーブル。無垢の白い木の床。流し台も木製で、白いシンクがはめ込まれている。飾り棚にはホーローびきの調味料ケースが並んでいて、サイズ違いのフライパンがデザインのようにぶら下がっている。殺風景なぼくの部屋とは大違いだ。この家の住人は生活を楽しんでいたのだな、と分かる。
テーブルの上には、消費電力の大きそうな、頑丈なフードプロセッサーがある。
胸が悪くなった。
やめてくれ! と叫びそうになる。叫んでも意味がないのは分かっているけれど。
これはもう終わってしまった事柄で、どうにもならないことだ。
映像を消しても、惣領かえでは帰ってこない。
やがて現れた惣領かえでは、水色の、学生のような下着姿だった。上下そろいで少し面積は少なめ。細い体なので、下着はずり落ちてしまいそうだ。窓からの光を受けて、白い肌が光っている。
すぐに様子がおかしいことがわかった。
うつろな目。ぎこちない動き。ぼくらがゾンビウォークと呼ぶ、「目標体制御システム」で操られている人間特有の動きだ。
断っておくけれど、動きを支配されていても、意識は明晰に残っている。
「目標体制御システム」は心を操る装置ではないのだ。
痛みも感じるし、恐怖も、絶望も、悔しさも感じる。
惣領かえでは、裾広がりのタンブラーを床に置き、ていねいにキッチンナイフを立てた。
それから、立ち上がってフードプロセッサーの前にゆき、電源を入れる。
やめてくれ! とぼくはもう一度叫ぶ。彼女はすでにもう、一度、地獄を見たのだ。
だれか他の人間にしてくれ! とぼくは利己的に言った。
どうして、彼女なんだ? もう十分じゃないか。彼女は幸せになろうとしたのに。
惣領かえでは意識があって、自分の肉体が破壊されるのを眺めることになる。
苦痛を感じても、かってに役に立っていた体の一部が、ただの肉塊になるなってゆく絶望に襲われても、からだは勝手に作業をすすめてゆく。
その時、惣領かえでは誰かを呪ったのだろうか? それとも祈っただろうか?
もしかしたら冷え切っていたのだろうか、自分を裏切り続けた運命を受け入れ、あきらめて、心で目を閉じていたのだろうか?
フライパンに、血と肉の塊が飛んで、へばりついた。
テーブルからしたたった血が、音を立てていた。
ぼくはログの再生を止めて、少しだけ吐いた。
こんなのってない。
これをやった人間を、生かしておくことはできない。
続く