世界保健機関(WHO)の統計によると、日本の自殺率の順位は、WHOに自殺統計を報告する百四か国の中で第一位だ。先進国、開発国、GDP、福祉率、どんな評価基準も必要ない、ぶっちぎりの第一位。
ICPOの調査する、人口十万人あたりの発生率殺人被害者の数は32.16人。先進国としては異常な値。もう少しで麻薬戦争を繰り広げる南米の国にせまる数値だ。ちなみにアメリカ合衆国は、6.26人。日本の発生率はアメリカの五倍だ。
地球に最初に出現した楽園は、世界でもっとも衝動殺人の多い国だった。
善意社会は人を殺す。誰が予想しただろうか?
尊敬を要求して、人を殺す。騙された、裏切られたという理由で人を殺す。知られたくなかった、なかったことにしたかった、という理由で人を殺す。自尊心は、人を死にいたらしめる病だ。
人が、誰かの承認を必要とするのは分かる。
ぼくだって、理解して欲しいし、認めて欲しい。
でも、それは人を殺す理由にはならない。ぼくならもっと別の理由で人を殺す。快楽の為に殺す方がよっぽどマシだ。
たとえば、友達を殺されたら、怒りを感じてもいいんじゃないかと思う。
それなら、納得して人を殺すことができる。
人を殺すには動機が必要だ。快楽殺人犯でも、快感を得る為、という至極まっとうな動機がある。ふつうの人には理解できなくても、そこには整然としたロジックがある。西宮はるかのロジックはなんだろう? クライエントを殺してなんの得が? 彼女はシリアルキラーなのか? 最悪の快楽殺人者なのか? 彼女だってわかっている筈だ。ずっと続けてなんかいけないって。どこかの時点では清算しないといけなくなる。
ぼくはどうして逮捕に協力しなかったのだろう? もちろん西宮はるかを助けた理由はある。
襲撃はぼくには知らされていなかった。多次元機動捜査研究室にとって、ぼくに知らせるのは都合が悪かったからだ。
法的に整っている逮捕ではなかった。というか、逮捕するつもりだったどうかも分からない。
投入された偽体は二体。生身の人間には必要ない対応だ。
ぼくの抵抗を予想していたのだ。
でも、どうしてあのタイミングで?
理由は一つしかない。ぼくと西宮はるかを接触させたくなかったんだ。
西宮はるかは、ぼくの心を動かすだけの材料を持っている。
コミュは外部支援をもらわないと自立走行できない。だからぼくは、コミュの操縦をしなくてはいけない。
コミュの操縦は昔の車と変わりない。ただハンドルが丸くなくて、アクセルとブレーキのかわりに、ベクトル制御レバーが生えているだけだ。ほとんど使うことがないから、あまり大げさなインターフェースは必要ないのだ。
ずっとレバーを定位置に持っているのは、肉体的には苦痛を感じる操作だけれど、手を放すと緩減速するようになっているので仕方ない。交通管制システムに怪しまれないように、スピードも一定にコントロールしないといけない。これもわずらわしい作業だ。
さいわい、ぼくの体はある程度の苦痛をコントロールできるようになっている。健常者でなくても、たまにはいいこともある。
西宮はるかは、だまって窓の外に流れる街並みを見ていた。無限ループのような住宅の光景。ときどき小規模な工場があって、住宅と見分けがつかないようなオフィスもある。もう笑顔はない。取り繕う必要はなくなったからだ。
街の建造物の中で、もっとも大きな物はショッピングモールだ。人口が減って、大規模量販店はますます巨大化した。小規模事業者はネット販売に特化してしまったからだ。地理的障壁を越えなければ、やっていけるだけのマーケットが得られない。
「どういうこと? どうして狙われているんだよ?」
「話したら、もう戻れなくなるわよ、あなたも」
ぼくを脅すにはあまりうまくないロジックだ。ぼくには戻りたい所なんてない。論理的な彼女らしくない。
「いいよ、べつに。聞いたら誰が敵か、はっきりするかな?」
なにげない言葉だったけれど、ぼくははっきりと、自分の気持ちが高揚するのを感じた。
初めて気がついた。
ぼくの心が欲していたのは、善行でも、善意でもなくて、獲物だ。
ぼくの全能力を投入するに足る。狡猾でタフな獲物。
唇がにっとまくれあがるのを感じた。
ぼくは心に獣を隠していた。
「聞かせてよ、誰が殺してるのさ? 君かい? それとも研究室の誰か?」
ぼくは、車が減速するのは構わずに、西宮はるかのあごを指でつかみ、自分の方に向かせた。西宮はるかの顔は、痛みで歪んでいた。
「誰が、惣領かえでを殺したんだ?」
西宮はるかは、ぼくの手を払いのけた。痛みで目じりに涙が浮かんでいる。
「そんな顔はやめて、惣領かえでは、きっと悲しむわ」
そう言うと、西宮はるかは目を背け、また窓の外に見入った。
死者に気持ちなんかない。あるのは残された者の感情だ。
もし、殺したのが西宮はるかなら、ちゃんと償いはしてもらう。
他の誰かなら、なおさらの事だ。必ず後悔をさせてやろうと思う。
コミュを降りてから、ずいぶんの距離を歩いた。隠れ家の前で停止した記録が残ったら意味がない。ていねいにたどれば、たいていの出来事は追跡することが出来るのだ。
この辺りは、大手のロジスティックセンターが集まっている。自動配送車両が行き交っているので、交通量は住宅街より多い。
副現実には通販大手の看板も見える。工場見学の案内や、メンテナンス人員募集の案内が、建物のまわりを漂っている。副現実をオフにすれば、見えるのはただの白い箱の形をした建造物だけだ。倉庫の内部では、ロボットがタグを識別し、商品を集め、記録して、荷物にしている。
人間は、ときどき機械の面倒を見るだけの、支配的ではない、ただの部品に過ぎない。
これがデフレーションの正体だ。機械に給料は必要ない。
「あし、痛い。まめが破れたわ」
まあ、ふだんからヤワな生活をしているから仕方ない。おぶってあげたいところだが、ぼくもこの装備で人の面倒までは見れない。
「もう、少しがまんして。それから、あまり顔を上げちゃ駄目だ。監視網があるからね。よけいな記録を残したくない」
「おふろある?」
ぼくは笑った。女の人だな、と思う。
「あるよ。ジャグジーだ」
「頑張るわ」
西宮はるかは、知っていることを話そうとしない。
話したいという気持ちはあるのだと思う。ときどき、物言いたげな顔をしていることがある。
まあ、べつに急ぎはしない。
この界隈では小さなその建物は、萩尾商事、と副現実に看板を上げている。普通の民家より気持ち大きいかな、くらいの倉庫。消防用の設備、消火銃とか、耐火服とか、耐火ヘルメットとかを取り扱っている、と副現実には記載されている。
副現実は嘘だ。これはぼくが違法な手段で手に入れた――べつに深刻な犯罪じゃない。ちょっとした電子的窃盗だ――隠れ家で、呼びかけても、近々廃業するので営業を控えている、という自動応答しか返ってこない。程度の違いこそあれ、研究室のオペレーターは、みんなこの手の用心をしている。危険な職務だという自覚があるのだ。
「ここなの? ジャグジーは?」
「大丈夫だよ。これは倉庫じゃないんだ」
正面からは、もちろん入らない。入り口は道向かいの貸しオフィスにある。
「どこにいくのよ?」
「だまってついて来て。捨てていくよ」
ぼくはオフィスのキーをポケットから取り出して――追跡されたくないので、純粋な機械鍵だ――貸しオフィスに入った。象徴的に看板として使用するくらいしか用途のない小さなオフィスで、机を並べる事もできない。まあ、わざとそういうオフィスを選んだわけだが、奥の倉庫に入って、床下収納をあける。ぼくの生体情報、指紋と声紋がキーになっていて、収納庫は横にずれ、地下への階段が現れた。
地下なので窓はないけれど、空調が効いている。
狭さについては、あまり文句は言えない。それでも十畳くらいの広さはある。ただ空間が一つしかないだけだ。
ベッドは一つしかないので、ぼくはソファと毛布で寝ることになる。
食料と水は十分にある。ジャグジーも。
単調な白い壁を我慢することが出来れば、それほど不快ではない。たぶん、病院で過ごすくらいには心地いいと思う。
「ネットに接続してもいいけど、閲覧だけ。発信は禁止。書き込みも、購入もだめ。追跡されるからね。オーケー?」
「了解」
西宮はるかの目は、きょろきょろとジャグジーを探している。思っていたより、落ち着きのない人だった。
「風呂なら、ベッドの後ろにあるよ。仕切りはスクリーンしかないけど、見ないから我慢して」
「べつに見てもかまわないわ。その先でも問題ないし。ちょっとストレスたまってるのよね」
西宮はるかは、どきっとするような事を言いながら、スクリーンの後ろに消えた。
ぼくは、弾倉を詰め込んで馬鹿みたいに重い上着をソファに投げ、PDWを肩からおろした。一通りの動作確認をした後、銃の扱いを知らない人物が一緒なので、マガジンを外して、薬室の弾丸を抜いた。抜いた弾丸はマガジンに戻して、マガジンは取り付けておく。これで誤って引き金を引いても、弾が飛び出す事はない。
部屋の隅にあるノート型端末を起動する。
じつは先程、ラボのコントロールを乗っ取った時に、ありったけのデータを転送、保存しておいた。
無料でアカウントを取得できる情報保存(ストレージ)サービスをいくつか経由しているので、追跡は簡単じゃないと思う。
データを一覧し、人事ファイルに目を通す。人事ファイルは官公庁で使用が定められている、汎用のファイル形式だ。画像でも、動画でも、テキストでも、思考ログでも、このファイル形式に放り込んでしまえば、紙で見るように閲覧することが出来る。
オペレーターは貴重な資源なので、履歴は詳細なファイルになっている。モニターで目を通しながら、拡張視野で記載事項の裏をとってゆく。拡張視野にはいくつものウインドウが開き、消えてゆく。地方自治体の記録、厚生労働省の記録、大学の記録、すぐに気付いた。
斎賀亮平のファイルが、存在しない。
いや、ファイルは存在する。けれど記載されている事項はぜんぶでたらめだ。斎賀亮平の過去はねつ造されたものだ。自衛隊に斎賀亮平の記録なんてない。
斎賀亮平はたぶん、自殺者たちが死ななければいけなかった理由を知っている。
オペレーターの名前の中に、惣領かえでの名前があった。知りうる限りの詳細な過去が、この中にある。
見ない方がいいのだろうか?
これ以上、共感要素をふやしてなんになる? 相手は死人だぞ? ぼくの心の中の声が言う。
でも――、
と、違う声が言った。
――でも、理由が必要だろ?
その声は獰猛に笑っていた。
続く