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【おつとめ】(2/8)

母はあまり実家である下斗米の家には―

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 母はあまり実家である下斗米の家には戻りたがらなかった。四国の山奥にある故郷は、母にとってはあまり思い出したくない場所のようだった。夏休みと正月に数日だけ帰省するのは社交辞令だ。埋め合わせをするようにぼくだけを一週間ほどおいてゆく。たぶん、人質みたいなものなのだろう。
 大事にはされたけど、特に大人がかまってくれるわけではなく、ぼくの相手をしてくれるのは、いつもいとこのゆなねぇだけだった。
 母のおねえさんの子供だと聞いていた。
 母の姉は若い頃に家を出て、長く戻ることはなかったそうだ。ある日、小さな娘を連れて家に戻り、すでにこじらせていた病気のせいで、ほどなく亡くなったと話していた。
 だから、ゆなねぇは祖父母と叔父さん夫婦に育てられたことになる。
 実家に住んでいたのは、祖父と祖母と、家の後継ぎになる叔父さん夫婦だ。母からすると兄になる。この夫婦は子供には恵まれてなくて、家にいる子供はゆなねぇだけだった。
 村にはもう数戸の家しかなくて、ぜんぶ親戚みたいなものだったらしい。村中あわせても子供はゆなねぇしかいなかった。
 学校は、祖父に軽トラで送ってもらっても一時間かかるほど遠いと言っていた。
 どうしてこんなところに住まないといけないのだろうと、子供だったぼくは思った。
 ぼくには、村全体がまるで亡霊のように見えた。


 家の裏手から石垣を下ると、杉林の間を抜けて谷間の渓流に繋がっていた。
 日差しは強くても、山の空気は霧をふくんだようにひんやりとしている。それくらいこの村の標高は高い。
 大きな水色の岩がごろごろしていて、ちょうど目の前は、巨岩から流れ落ちる水で滝つぼのようになっていた。透明度が高いので、川底の丸石が青く見える。青みが濃くなった部分が深いところだ。
 名前も知らない魚が、ひらひらと泳ぐのが見えた。
 コンクリートを打った洗い場が川べりに作ってあって、ゆなねぇとぼくはそこから勢いよく水の中に飛び込んだ。
 水は心臓がとまりそうなくらい冷たかったけれど、すぐに体は慣れた。
「溺れるなよ、少年!」
「溺れないよ。水泳はとくいなんだ」
「少年はなんでもそつなくこなすんだな。できる子だ」
 ゆなねぇは実はあまり水泳が得意ではないようだった。じたばたと手足をせわしなく動かしている。確かに世の中には水に浮かない種類の人がいる。
 その様子を眺めていると、ゆなねぇは笑顔のまま、水を飲み始めた。
「げほっ、冷たくて、気持ち――げほっ」
「……もしかして、溺れてる?」
「手を……貸して……くれるかな、げほっ」
 冗談じゃない。泳げないんじゃないか。
「なんで、そんな無茶するんだよ!」
 ぼくは、ゆなねぇに近寄って、体に腕をまわした。Tシャツは空気を含んで水面近くにあったので、腕に柔らかな膨らみが触れるのがわかった。
「暴れるな、しがみつくなよ」
「わかた、げほっ」
 なんとかゆなねぇの体を岸に押し上げると、ゆなねぇはコンクリートに寝転がって笑った。
 本当は笑いごとじゃない。夏にはたくさんの人が溺れて死んでいる。
「ほんと冗談じゃないよ。溺れたら死ぬんだよ? 知ってる?」
 寝転がったゆなねぇの体には、濡れたTシャツが張り付いていて、ピンク色の先端が尖っていた。濡れたコンクリートがちゅんちゅんと音を立てた。庇のように渓流へ垂れかかった木立から、木漏れ日が顔にかかっていて、ゆなねぇは眩しげに腕で目をかくした。
 目を隠したゆなねぇはとても無防備で、どこを眺めても、とがめる人は誰もいなかった。
 虫の羽音が、近くなったり、遠くなったりしていた。
 濃密な緑の落とす影が、ゆなねぇの体を這っていた。裸よりずっとえっちだと思った。
「どこ見てるの」
「……ご指摘のとおりのところを」
「どんな感じ?」
「ちょっと、どきどきするかも……不本意ながら」
「不本意って、どういう意味よ」
「だって、ゆなねぇは、いとこだろ」
「いとこだからなに」
「ちょっと、不自然かなって」
「どうなったら自然なの? 自然な関係ってどうなればいいの?」
 ゆなねぇは怒ってるみたいだった。
「どうしたの?」
「……ごめん」
 腕で顔を隠したまま、ゆなねぇは言った。ぼくはなんだか悪いことをしたような気分で、目をそらした。
「ゆなねぇ。怒ってるの?」
「……べつに」
 ゆなねぇは、ぼくを見ていなかった。ぼくはおっかなびっくりで手を伸ばし、触れてしまいそうな距離に手の平を近づけた。ゆなねぇはなにも言わなかった。
 すけて見える乳房のぬくもりがわかりそうなくらいに、手の平を近づけ、ふくらみのかたちに指を曲げてそわせた。その間の距離は紙一枚ほどだった。
 どうしても超えられない一線を、ゆなねぇが破った。
 手をそえたゆなねぇは、ぼくの手を胸に押しつけた。ゆなねぇは顔を隠したままで、表情はわからなかった。
 強く握ると、
「ばか、いたいよ」
 と、女の子の声で言った。
「あらあら、まずいところに来ちゃったわね」
 大人の声で、ぼくたちは飛び上がった。ゆなねぇは起き上がって胸を押さえた。
 お盆にスイカとラムネをのせて見下ろしてるのは、おばの琴音さんだった。母の兄の奥さんだ。もう、けっこうな年で、髪の毛を色気なく手ぬぐいで覆っている。不美人というわけではないけれど、くたびれた感じがして、女っぽい色気のようなものはなかった。着ている服も農作業に使う野良着だ。
「大丈夫よ。誰にも言わないし、別に心配もしない。そういう年頃だものね」
 琴音おばさんは、お盆をぼくたちの前に置いた。薄い笑みで、ゆなねぇに耳打ちする。
「そういう子だしね」
 ゆなねぇは唇をかんだ。どういう意味かぼくにはわからなかったけれど、琴音おばさんの笑みは嘲りを含んでいて、ゆなねぇがあまり好きではないのだということだけが分かった。
 ラムネは水滴がいっぱいくっついていて、よく冷えているようだった。
「おいたする時は、ちゃんとまわりを確認してね」
 琴音おばさんは、含み笑いを残して、石段を上がって行った。
 ゆなねぇはその背中を見送りながら、スイカをとって乱暴にむしゃぶりついた。流れた汁がTシャツを汚すのもかまわなかった。
「少年、食べなよ」
 ゆなねぇは暗い目で言った。よく分からないけれど、よその家にもいろいろ事情はあるのだと思った。

      続く

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