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【おつとめ】(4/8)

ゆなねぇは懐中電灯を持っていて―

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 ゆなねぇは懐中電灯を持っていて、家の石垣をおりて、水田のあぜ道を通った。水路からはせせらぎの音がして、水の中ではいもりが懐中電灯の光から逃げようとしている。
 あぜ道は少し広い砂利道になって、突き当りには木の鳥居が見えた。以前は赤く塗られていたのだろうけれど、いまは雨に打たれた木肌の色だった。
「気味悪くない?」
「少年は臆病だな」
「だって、山だよ」
「大きな生き物はいないよ」
「いや、生きてない物のことだけど」
「ああ、そういうこと……やだな、気味が悪くなってきた」
 砂利道は山すそをゆるやかに上がり、石段に変わった。
 ゆなねぇは汗をかきはじめていて、耳の後ろから果物のような、野菜のような、みずみずしいけれど甘ったるいような匂いがした。ぼくはビーチサンダルでも足元がおぼつかないのに、ゆなねぇは下駄でもぜんぜん平気で、ひょいひょいと石段を登った。
「どこまで? どこなの?」
「神社だよ。この斜面の上まで」
 虫の声が、押し包んでくるようだった。光は足元を照らすだけで、森に向けても暗闇にのまれてしまい、見えるのは蜘蛛の巣だけだった。
「ほんとは憶えてるの?」
「なに?」
「お母さんのこと」
「……ちょっとだけ。家を出る前は巫女だったって話してくれた」
「巫女? この神社と関係があるの?」
「あたりまえだよ。この三間坂神社は、下斗米の家が護る社なんだから」
「そんなこと聞いたのはじめてだよ。どうして誰も教えてくれないの?」
「時枝さんは、教えてくれなかった?」
 時枝というのは、ぼくの母の名前だ。母さんは時々、ゆなねぇと電話で話をしていた。
「母さんは、実家の話は、まったくしないよ」
「そうかもね。べつに驚かないよ」
 とゆなねぇは言った。そこには確かに秘密があるのに、なんだか触っちゃいけないような雰囲気がぷんぷんしていた。
 もう無理です、と降参しかけた頃に石段は終わって、たどりついたのは山の頭を削いでつくった、平らな敷地だった。標高が高いので空気が澄んでいて、たくさんの星々の間にはくらくらするほどの奥行きを感じることがができた。夜空は背景ではなく、三次元の空間なのだと改めて実感した。
 敷地には石畳が敷かれていて、ずっとさきに寂れた神社の建物が見える。
 草が生え放題になっていないのは、最近バーナーのようなもので焼き払ったかららしい。石畳に焦げ跡が残っていた。
 ゆなねぇは先を歩いた。白いふくらはぎが、浴衣のすそからちらちらと見えていた。
「こっちだよ」
 ゆなねぇは倉庫の横をすぎて、神社の裏手にまわった。そこは断崖絶壁をのぞむ展望台になっていて、石の手すりの向こう、山肌をたどって、ずっとずっと遠くに、ふもとの街がネオンをきらめかせていた。
 光はぼんやりと街を包んでいた。
 山は漆黒のシルエットにしか見えないけれど、それだけに人の生活の光は、星のきらめきより鮮烈だった。こんなに遠くからでも見ることが出来るのだ。
 これが蜃気楼でなければ、あそこには何万人もの人が暮らしているのだ。
「どう?」
「どうって?」
「遠いけど、近いんだよ少年。あそこには普通の暮らしがある。あそこでは食料品の買いだめはしなくていいし、歩いて十分で学校にいける。家族以外の隣人もいるし、さみしくなったらいつでもいとこに会える」
「それ、最後以外は普通だけど」
「いいね、普通。あこがれるよ」
「べつにあこがれなくても、大人になったらあそこで暮らせるよ」
「大人になれたらね」
「なりたくなくても、たいていの人は大人になるんだけど」
「なるよ大人に。がんばって自分でお金をかせいで、誰にも後ろ指をさされずに山を降りる」
「それがいいよ」
「その時には、少年はわたしとご飯を一緒に食べたりしてくれるかな。もちろんわたしのおごりだけど」
「いやとは言えないよね。この流れだと」
 ゆなねぇはぼくの手を握った。どうしてだか、その手は震えていた。
「約束だよ」
「するよ、約束。ぼくはゆなねぇのことが好きだからね」
 ゆなねぇはぼくの顔をまじまじと眺めた。
「……ほんとに?」
「二回、言わせるの?」
「言ってみてよ」
「……好きだよ。いつも待ち遠しい。ここへ来ればゆなねぇがいる。でないとこんなとこには来ない」
「ちょっと、こっち向かないでよ」
「どしたの?」
「いいから」
 ゆなねぇはぼくの背中にまわり、後ろからぼくの首に腕をまわした。
 ぼくの首筋を暖かい液体が濡らした。
「学校のともだちは、遠いからたいへんだねって見送ってくれるの。でも、だれもうちに遊びに来たことはないし、遊びにいったこともないんだよ」
「ゆなねぇ……泣いてるの?」
「年になんどかしか会えないけど、わたしにはなるがいちばん、近くにいる人なんだよ」
 ゆなねぇはぼくの首を、苦しいくらいにぎゅっと引き寄せた。
「なる。わたしもずっと待ってたんだ……うれしくないわけないよ」
 ゆなねぇはぼくのほっぺたに自分のほっぺたをくっつけた。
「ねぇ、なる。はやく大人になって」
「大人なら、さらっていくかもね」
「さらってよ、なる」
「大人になったら」
「そうだね、大人になったら。でも冬には来てよね。そんなに待てない。なるが大人になるのは、ずっとずっと先のことだよ」
「うん、約束だ」
 長い間、二人でそうしていたと思う。もう戻ろうと言ったのはゆなねぇだった。どうしてだか、登ってきた時よりも元気がなくなってしまったみたいだった。

      続く

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